1.講師紹介(小林 昭雄)
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『九鬼奔流』というNHK大河ドラマを推奨する会を始めて3年になりますが、野上さんという人が
発案者でありまして、皆が集まって3年間、こんな素晴らしい歴史があるということで、日本でも誇
りうる歴史があるということを皆に知って欲しい。三田には何もないと思っている人が多いけれども、
そうではなくて、こんなに素晴らしい歴史があるということを推奨したいと、こういうグループで研
究会を進めて参りしました。
三田には我々の会より以前に先哲顕彰会という会がございまして、三田藩士の末裔達を含めて、自分
達の先祖にこんな素晴らしい先哲が居たことを顕彰する、明らかにする会があり、そして、その人達
に作られた三田学園の中谷先生や他にもメンバーが居て研究してこられた方がいらっしゃいまして、
我々はそれを尊重しながら足元を明らかにしていこうというグループでありますが、その中の中心は
高田さんでございます。
今日、短く高田さんを紹介させて頂きます。
高田さんはお父さんとご本人を含めて三田藩の、三田の研究をずーっと続けていらっしゃいまして、
私が、書かれた本を持って参りましたが、一つは高田さんのお父さんが書かれました『三田本町史』、
『摂津三田史』というのが昭和57年に書かれておりますが、高田さんのお父さんの本です。
それから、お父さんが同じように『三田明治史』…『三田諸事風聞記』、三田の明治時代にかけての歴
史で、『諸事風聞記』というのを書かれています。
そして、もう一つお父さんが書かれたのを高田さんが纏められましたのが『三田本町史』、これですね。
根っ子は、近くに朝野さんという方がいらっしゃいまして、そこには沢山の古文書があります。その
古文書からお父さんが起こしてずーっと研究してこられた3冊の歴史書。これは高田さんが最後に纏
められているわけですが、お父さんの手掛けられたものです。
そして、その後を継がれまして、お父さんは高田忠義、息子さんは高田義久。皆、正義の人でありま
して、その高田さんの著作はですね、『三田藩士族』というのがあります。これが平成8年に出たもの
ですね。それから、『赤松有馬氏年譜』というのがありまして、これが出たのが平成9年ですね。それ
から、その次、平成11年に『三田藩年譜』が出ています。それから、平成12年に『三田本町史』、
それから『三田の町制』というのが平成14年ですね。これだけ出ています。
これらはですね、他の本を読んで作ったというような二次的なものではなくて、根っ子は地元に居て、
古文書から起こして自分の足元をきちんと調査した、非常に貴重な、他に類例のない研究なんです。
こういう方が居なければ歴史が残らないと思うけれども、本当にきちんと三田の歴史が残されている
わけです。
私も、どうしようかというので相談に行ってですね、そして高田さんを中心に三田の町を考えて、我々
がもっと動いてNHKを動かしていこう。NHKを動かすということは認められたということになる
んですが、例えNHKに認められなくても皆さんに三田の歴史を知って欲しい。我々の先輩にはこん
な人が居るんだから、それが三田に何をしてくれたかというのではなくて、三田を越えて、明治の時
には神戸に出て行って、日本を興す為には三田を越えて、神戸を作ったのは三田藩士がものすごく貢
献しているわけです。神戸の近代的な町を作ったのは三田藩士達の、その他同志社なんかもあります
けれども、神戸女学院もありますが…。
だけど、そう云う素晴らしいことを、後から詳しくお話しますが、したのが三田藩に居るということ
を、例えNHKへ認められなくても皆さん方に分かって頂くような、そう云う活動をしたいというの
が私の念願です。
高田さんのように自分で集めた第一次元資料でここまで調べ上げたことは他にはないと私は思ってお
ります。
早速、先生のお話をお伺いしたいと思います。
2.講演内容(講師:高田義久)
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明けましておめでとうございます。
郷土史コース、『九鬼奔流』1、2ということで始めさせて頂きます。私は主に『九鬼奔流の』九鬼の
源流というところとと最後のところ、この部分を中心にお話します。そして、次回は川本幸民を中心
とした話を致します。
本日レジュメとしてお渡ししているのは、『九鬼奔流』の48幕、これはかなわぬ事ながらNHKの大
河ドラマに三田を採り上げてもらおうということで作成されたもので、この48幕を纏められたのは
金沢大学の名誉教授でありました阪上先生という方、この方は宝塚に住んでおられたんですが、三田
に毎月来られまして色々な資料を紐解きながら、これで1年間のドラマが出来るではないかと、この
資料を纏められまして、その年に亡くなられた訳なんです。
ですから私達は何とか先生の意志を継いでこれを世に出したいと、先般、NHKの担当部門に、俳優
の渡瀬恒彦君という、三田学園で私より下にいたんですが、1級下には渡哲也がいたんですが、その
弟の方で、丁度先般の大河ドラマで沢庵和尚をしていましたので、ディレクターにこの様な構想があ
るんだということを、資料と合わせて持って行ったんですが、向こうの方では、九鬼とか川本幸民と
いうのはメジャーではないんじゃないか。一般的に知られていない。全国ネットで親しめる為には本
で、作家を選んでベストセラーになれば、全国的に知れ渡ってNHKとしても取り上げ易いとのこと
で、現在は作家を探がす運動を行っているという状況です。
皆さんも関心がございましたら、月に一回、我々は会合を行っておりますので、ご参加頂けたら有難
いなと思います。
前置きはそれ位に致しまして、もう一つのレジュメの中で、九鬼の源流の中で九鬼の系図を載せてい
るものと、もう一面、三田御家中町々居宅順覚というもの、その裏に三田の屋敷絵図を付けておりま
す。
先ずは、九鬼の源流というところから始めます。
元々、由緒ある家ばかりではないんですね。戦国時代に成り上がりで上がってきた大名などは先祖の
由緒を良くする為に系図の改竄という事は良くあることなんです。九鬼さんにしてもそうなんですが、
寛永の頃の系図を見ますと、そこにも載っていますように九鬼さんの本家から始まっていないんです
ね。第一分家の九鬼隆良を藩祖としているわけなんです。元々九鬼氏は三重県の九鬼浦という所に住
んでおりました。そして、志摩の大王崎の所に進出してきたのが隆良。隆良は波切にあがって徐々に
志摩の国を平定していくわけなんです。
ですから、九鬼さんの系図は隆良、隆基、隆次、泰隆、定隆そして、その次に浄隆をもってくるんで
すね、系図では。本家に戻してから、澄隆から嘉隆と系図はもっていきます。だから、嘉隆は8代に
なるんですね。だから、第一分家から本家へ戻して第3分家へというような、ややこしい系図の作り
方をしております。しかし、心月院の過去帳を見ますと、九鬼を調べるときは嘉隆を持って初代とす
べしと書いていますように、嘉隆を以って三田の九鬼家の藩祖とする。そのようになっております。
従って、藩祖祭という、400年祭が先般行われましたが、それは三田では行われませんでしたが、
鳥羽で盛大に行われました。300年祭は明治に三田で盛大に行っております。このように、嘉隆を
藩祖とするということでございます。
この嘉隆は徐々に志摩の国を抑えていきます。それを快く思わなかった当時の志摩の守護、北畠氏は
志摩の海賊7人衆と共に、九鬼氏の追い落としにかかる。九鬼氏は志摩を追われまして、当時名古屋
から京都へ出て来ました、中央へ出て来ました織田信長の家臣、滝川一益の下に仕えます。
織田信長は嘉隆の海軍力というのを認めていましたので、伊勢から鳥羽にかけての海賊を束ねて織田
水軍というものを作らせています。そして、嘉隆が先ず最初にしたことは志摩の平定です。自分が負
われた志摩を織田の水軍として戦って治めてしまうということで、志摩を治めたことによって鳥羽を
もらうわけですね。
その後、長島の一向一揆があって、これには嘉隆は、長島というところは川なんですね。両岸に木曽
川とか揖斐川があるわけですが、川を船で遡りまして船上より艦砲射撃をして城を陥してしまう。こ
れによって石山本願寺との戦いが始まるわけですね。一向一揆との戦いというのは長島を抑えたこと
によって石山本願寺と織田信長との戦いというのが始まるわけです。
織田信長は陸路は蟻が入り込む隙間がない位固めるんですが、後ろは海でございまして、この海から
毛利水軍、村上水軍というのが援護します。中々倒せないわけですね。そこで、信長は嘉隆に命じて、
大砲3問を持った鉄船、鉄の船を作れという命令を出します。嘉隆は考えた末、安宅舟に薄い鉄板を
貼り付けた。何故かといいますと、当時の瀬戸内海の海賊は焙烙といいまして、矢の先を割って、布
を巻きつけ、そこに油をしみこませて火を付けて船のドテッパラに撃ち込む訳ですね。それによって
船を燃やしていくという、そういう戦術ですから、それを防御する為にそうしたわけです。
そして、和歌山の雑賀衆を蹴散らして大坂湾に入ってくるわけです。そして、大坂湾で毛利水軍と一
戦を交えます。当然、問題にならないわけですね。九鬼氏は鉄船に大砲を備えている。向こうは弓矢
で、小さな早船でやってくるけど、殆ど問題にならないわけです。それによって、石山本願寺は海路
の補給が閉ざされたということで、もう戦いは続けられないということで和議を結ぶわけです。とい
うことで、石山本願寺は石山寺を離れます。
その後信長はご存知のように明智光秀の本能寺の戦いで倒れますね。その後、嘉隆は豊臣秀吉に使え
ます。豊臣秀吉も九鬼の水軍力というのは高く買っておりますので、九州の島津の時にも参加します
し、もう一つは朝鮮の役ですね。これは文禄の役と慶長の役の2回出兵しますが、文禄の時には当時、
嘉隆を大将にしないと統制が取れないのではないかと、水軍大将として朝鮮へ出兵します。そして、
当時は連戦連勝するわけですが、九鬼氏より禄高の高い脇坂とか加藤などが先陣争いをするわけです
ね。功名を焦り過ぎて統制を乱してゆき、徐々に負けていくんです。そして、最後陸戦で連戦連勝の
隊を退却させるわけですね。海路を断たれると、何日かかっても帰り道がないわけですから、未だ軍
船が残っている時にということで、一兵も残さずに引き揚げるということで、水軍の功績は少なかっ
たという責任を取らされまして、次の慶長の役では選ばれなかった。
それによって、嘉隆は家督を息子の守隆に譲りす。そして間も無く関が原の戦いが起こるわけですね。
その頃の大名は、信州の真田家でもそうですが、兄弟で分かれて戦うことで、どちらが勝っても家は
助かるということで、九鬼も嘉隆は西軍について、息子の守隆は東軍に付くわけです。関が原の戦い
というのは1日で終わってしまうわけですね。そして、追われる身になるわけですが、息子の守隆は
父の助命嘆願を行うわけです。中々許してもらえない。そして、やっと許されて、使者が伊勢へ着く
途中で嘉隆は自刃します。そして、守隆の時代になるわけですけれども、守隆は大坂で西軍の船を身
動きさせずに止めてしまうわけですね。大坂の陣は間も無く終わります。それで、守隆は5万6千石
をもらうわけです。
そして、次に起こるのは家督相続なんですね。系図を見ると分かりますように、守隆には男の子が5
人居ます。良隆、貞隆、隆季、隆重、久隆。長男の良隆は病弱でしたので、家督を放棄します。そし
て、貞隆に譲るんですが、貞隆も疱瘡で若くして亡くなります。当然、三男の隆季が家督相続を主張
するわけです。何故五男の久隆が思うでしょうが、久隆は当時は朝熊山のお寺、金剛證寺にあずけら
れていたわけですが、長女の西照院という方が、西照院の子供というのがこの久隆と同じ年代でした
ので久隆を引き取るんですね。そして、自分の子供と一緒に育てるんですね。そして、長男良隆の養
子に入れていくわけです。ということは、長男の養子ということは家督相続権の第一人者になってく
る。ということで、三男の隆季と五男の久隆が家督相続争いをするわけです。お家を2分するわけで
す。しかし、長男、嫡子ということもあって隆季は中々認めてもらえないということで、幕府に訴え
るんですね。日本の水軍の将として年齢的にも私以外に継ぐものは居ないんだと、従って私の家督相
続を認めて下さいと、幕府へ訴え出た。この時代、既に天下は治まっているんです。しかし幕府にと
しては家督相続とか、お家騒動を起こすとお家取り潰しの好機なんです。しかし、幕府はこの好機を
捉えて九鬼を潰せなかったんです。何故かと言うと、水軍で江戸を攻めるということは簡単なんです
ね。陸路を何日も掛けて隊を動かすのではなくて船だと1日で行ってしまうんですよね。だから、何
時攻めてくるか分からないような、恐ろしいものを海へ放す訳には行かないと。しかし、幕府にも面
子がありますから、お家騒動を起こしたかどで5万6千石を没収するんです。そして、3万6千石を
与えて三田へ久隆を左遷させるわけですね。そして、残りの2万石を隆季へ、恩を着せて、お前には
2万石を与えようと、新しい土地、丹波の綾部へ封じて、水軍を山奥、海のまったくないところへ追
いやってしまう。そのように、何とかお家は保ったが、海軍力を生かせるところではないという所へ
追いやられた。
三田へ来た九鬼氏は武庫川の河川で船を浮かべて海戦の訓練をしたと、丁度下山というところへ船小
屋がありますが、そこの川で練習をしたという…。それは地図を見ればお分かりになりますように、
船小屋というのがずっと幕末までありました。それと、三田小学校の横の大池とか、そのような記録
があります。
三田の民話に間違えられた墓石というのがありますが、お殿様のお母さんの墓石が間違えられて、正
覚寺に運び込まれたという民話をご存知の方がいらっしゃると思います。この正覚寺に運び込まれた
墓石というのは、西照院の墓石なんです。
系図を見ましても、隆季の前までは正腹なんです。正規の奥さんの子供なんです。ところが、隆季か
ら久隆までは妾腹なんです。側室のお腹から出た子供なんです。そのような中で西照院だけが家臣に
嫁いでいく。そして、次女、三女は大名家へ嫁いで行く。そしてそのあとになると、家臣へ嫁ぐとい
う、沢山子供が居ますけれども大名家へ嫁ぐのは2人だけ。この系図を見ますと、少しややこしい書
き方をしていますが、九鬼家というのは二代の隆基までは直系なんですけれども三代からはずっと養
子なんです。三代、四代、五代、六代、七代、八代。ここまでは全て養子なんです。という事は、女
の人しか生まれなかったんです。だから養子なんですが、この時代、誰でも養子には出来ないんです。
一つ間違えると、お家を潰しますので、血縁関係を絶やさない。三代藩主のときは二代藩主の奥方ま
でいった人の家から養子をもらう。そして、四代目。これは、久隆の娘の嫁ぎ先、大和の柳生ですね。
柳生に嫁いでいました於文の子、副隆(すえたか)を養子にもらう。そして、ここでも子供が居ませ
んから同じく柳生から隆久を養子にもらう。そこでも男の子が生まれない。隆柢(たかやす)は戸田
家から養子。そして、隆由、隆邑というのは兄弟です。綾部の九鬼の兄と弟を引き受けてくる。隆邑
は長生きするんですね。そして、隆張、隆国と続くんですね。そして、最後の藩主、隆義も綾部から
養子に来る。養子の系図なんです、九鬼さんは。
これで、前座の九鬼の流れというのが分かって頂けたと思います。
それでは、学問の海という、教育のことについて話をしたいと思います。後半のところは川本幸民が
出てきますので割愛しまして、九鬼家の学問という、そもそも、九鬼家の学問というのは何時頃から
始まったのかということでありますが、今、系図で説明しましたように四代藩主副隆は柳生から養子
に来ます。そして、この時の徳川将軍は綱吉なんです。丁度元禄時代ですね。綱吉という方は大名を
近習化させた唯一の将軍なんです。殆どの場合近習は、お金持ちとか、殆ど旗本の優秀な人がなる役
柄なんですが、それを九鬼藩主である九鬼副隆、これは柳生で剣術指南役、自分も将軍とお手合わせ
したことがあるというので、気心が知れていますので綱吉の近習として採用される。ですから、副隆
の時代には江戸屋敷は2回変わるんですね。元々三田藩は数寄屋橋に藩邸をもらっていたんです。も
らっていたというか、元々藩邸というのは将軍から借りている、いわば。社宅なんです。だから、役
割に応じて藩邸は移動させられるんです。従って、ここでは将軍の側に仕えるということになると江
戸城から遠いということで、もう少し近い屋敷をやろうということでもらった所が神田橋。
副隆も病弱なんですね。箱根温泉へ行ったり、有馬温泉へ行ったりしているくらいなんです。そして、
役目が務まらないということで近習の役を降りるんです。すると、近くでなくてもいいなということ
で、変わらされたところが柳原なんです。元誓願寺という所に変わってくる。そして、一代の藩主で
これだけ屋敷を変えたというのは非常に珍しいんです。それ程重要な仕事をして役に立たれたという
ことで、ぽんとこちらへ行かされると…。そのように変わって、最後に霞ヶ関…。だから、三田藩の
江戸上屋敷は4つあったわけですね。この霞ヶ関は今の外務省の所へある。
この様に、将軍の近くで仕える身ですから、将軍綱吉は幕府の学問として朱子学、儒教である朱子学
を幕府の学問とするわけですね。林大学守が登用される。
丁度赤穂浪士の時に浪士をどうするかという時に、林大学の守が、浪士は忠義の人だから罰せずにと、
荻生徂徠とはまったく違う意見を出す。儒教ですから忠義ということをその教えの中に入れています
ので、そういう所で朱子学を将軍綱吉が勉強している。副隆は将軍の側へ仕えていますから、自分も
朱子学というものがどのようなものかを知らなければいけない。そこで、林大学の守の高弟であった
白洲分造を召抱えるわけなんです。当初、白洲家は藩主の儒官だったんです。ところが、副隆が亡く
なって教える人がいなくなった白洲家は三田へ行くことを希望する。そして、三田藩の子弟に対して
学問を教えるという、藩立学校の設立を唱える。
この様にして白洲家は代々三田藩の儒官として仕えます。この特例としては、三田の藩士を教えるわ
けですから、お父さんの教えたことを次の代に教えるということは好ましくないということから、5
年間の遊学期間をもらって江戸もしくは京都、大坂と、自分の好む師匠を選んで勉強に行くわけなん
です。これは全て藩費です。藩が藩費で遊学させているのは儒官だけなんですね。それ程白洲家は優
遇されまして、最後の白洲退蔵の時には儒教の学者ですけれども西洋学、蘭学等を取り入れるという
度量があったんです。
当初、藩校というのは白洲家の屋敷に設けられていたんです。地図を見てもらったら分かりますよう
に、今の屋敷町の県営住宅の所ですね。あそこに白洲家の屋敷があった。通常あそこの屋敷を改造す
る侍は100石以上の上士、上級武士があの地帯に居たんですが、白洲氏は代々20人扶持なんです
ね。侍といっても、無足という階級に入るんですけど、儒官として屋敷の中に学問所を設けるために
上級武士と同じ扱いの屋敷をもらっているんです。そう云う風な待遇を受けて代々学問を教えるんで
すが、その後文政5年には個人の屋敷で教えるというのは良くないということで、桜の馬場の所に造
士館、これは元々家老家の屋敷だったんですけど、故あって家老職を干された時に国頭として現在の
有馬高校のところにある屋敷に移らされ、空屋敷になった所に藩立学校を建てて、そこで教えるとい
うことになりました。川本幸民なんかはここで教えられた第一期生です。
藩校も国光館から造士館と名を変えてという経緯はございますが、一貫して儒教の朱子学を教えてい
たようです。
白洲退蔵という人は藩主から人材登用の時に儒官から大惨事という、家老に値する位まで上り詰めた
人ですが、この人が行ったことでもう一つ大きなことは、慶応元年に農民や町人の子弟に学問を授け
ていく。江戸時代には通常は寺子屋というところで学問を教えられたんですね、町人は。農民には学
問は要らんと言われた時代ですから、そのような時に白洲は、これからの時代は農民にも町人にも学
問を教えなければいかんということで、藩主導の学問所を作ります。侍は藩校がありますから、そこ
へ全て入学するわけですね。藩立学校でも授業は午前中だけなんです。午後は武術を、それは一つの
ところで教わるのではなくて、それぞれ師範について学びなさいと、自分が剣道がしたい、槍術がし
たい、弓術をしたい。そう云う選択は自由だったんですね。ただ、それは強制ではなくて、文武両道
の時代ですから、何れどれかは身に付けなさいということで、選択は自由に任された。そのような中
で農民や町人に学校へ行かせて、そして、勉強を藩の侍が教えに行くという形をとった。
三田町には市学校といいまして、町人には市学校が、農民には郷学校が…。その時作られた郷学校は
7つなんですね。これが、明治2年の百姓一揆の時に火種になるんです、郷学校が。何故、学問を教
えてもらっているのに、それが何故百姓一揆の一つの要求事項になってくるかといいますと、この学
校の運営にあるんですね。町の学校は、当時町の裕福な人から浄財を集めて学校運営をしていた。農
民に浄財と言うのはありませんから、村で持っています伊勢講田とか、村には色々な講があるんです
ね。その講というのは税が免除されているんです。そして、それは村が困った時にそれを使うとか、
伊勢参りに行くときの旅費の足しに使うとか、村の隠し財産というか、公になっているんですが、そ
う云うもので学校運営をやったんです。神社の長床を校舎にして、その費用をそう云う所から捻出し
た。そうした所が、明治2年の百姓一揆の時に、その年は不作なんですよね。そしたら、自分の年貢
は納められないと、そして、余裕のあるところに搾取されているという風な感覚が農民にあったので
百姓一揆の火種にもなった訳です。白洲退蔵が良かれと思ってやったことが逆になってしまったとい
う結果です。その後、明治5年に藩独自の郷学校が廃止されまして、後は尋常小学校に変わっていく
わけですが、こういう風に、当時江戸時代においては町民百姓には学問はいらないと言われた時代に、
白洲退蔵は、いや、そうではないと、この人達にも学問は必要だということで興した訳です。
英蘭塾については次回にお話しますので飛ばしまして、次は福沢諭吉でございます。福沢諭吉と三田
藩…。福沢諭吉については皆さん、知らない人は居ないわけですね。1万円札になっている訳ですか
ら。この人が何で三田に関係しているのかということがあります。坪井信道の門下生に川本幸民…。
川本幸民と緒方洪庵はこの、坪井信道の塾生なんですね。そして、福沢諭吉はこの緒方洪庵の弟子な
んですね。こういう関係で、川本幸民はこういった交友関係を結んでいる。そう云う関係もありまし
て、福沢諭吉は白洲退蔵とも九鬼隆義とも交友関係を結んでいる。そして、諭吉は自由な三田藩のブ
レーンとして色々な意見を言うわけです。この人は九州中津で、お父さんは中津藩の大坂蔵屋敷の役
人なんです。そう云う関わりの中で、諭吉は三田と非常な関わりを持ってきます。
今でも慶応義塾の書簡集の中に、福沢諭吉と九鬼隆義との書簡とか、白洲退蔵との書簡とかが沢山残
っております。ですから、明治2年前後のころには頻繁に手紙のやり取りをしています。その様な中
で、白洲退蔵との交友、そして九鬼隆義との交友というのが残っております。
三田藩が非常に進んでいたというのは、明治2年には洋服を着ているんです。そして、牛肉を食べて
いるんですね。そして、操練といって西洋式の操練をしているんです。軍隊ですね。明治になったら
そのようなことを取り入れている。
元々、九鬼隆義は幕府方だったんですね。柳の間詰めのまとめ役みたいになっているわけです。だか
ら、三田の地形というか、京都に一番近いところで、周囲が皆勤皇方になっている中で幕府方につい
ている。そこで、白洲退蔵は急遽、江戸へ上がるわけです。江戸へ上がる途中、神戸でスナイドル銃
という、最新式の銃を60丁買うんです。そして、江戸へ上がり、藩主を説得するんですね。
もう、今では幕府に恩義を感じて忠義を尽くすのではなくて、矢張り藩の人の事も考えて下さいと、
色々説得して、藩主は即座に国に帰ることを決めるんです。翌日幕府へ届出をしてね。
何で帰ってきたかといいますと、船で帰って来たんです。横浜から船を仕立てましてね。大坂へ着い
たらもう、慶応4年ですからね、鳥羽伏見の戦いが始まっているんです。そしたら、大坂湾には軍船
が入っていますから、近寄るなということで、神戸港に入港し、六甲を通って帰って来るんです。
その時には、馬に乗って、洋服を着て帰って来たんですね。それを三田の人は横山峠で迎える。そこ
で隆義は朝廷に対して恭順の意を表します。その代わり身の早いこと、1日にして佐幕派から勤皇派
へ変わっていくという…。そして、山陰の鎮撫軍総督が福住に来た時には藩から出て行って、三田藩
は勤皇二心無しという、恭順の意を表す。というふうにして、即座に手を打っていく。だけど、戦争
に出す兵隊はないんです。お金を献上して、そして京都御所の守護として50人の兵を出す。その時
は、三田から出兵する時には鼓笛隊が付いているんですね。明治2年には三田には鼓笛隊が居るんで
すよ。太鼓を叩いて軍隊を出すんですね。よそは、銃といっても火縄銃が残っている時代なんです。
三田では元込め銃なんですね。火が出ないから、あれは変わっているんだろうと、京都へ守護に行っ
た時に言われたけれども、実際に演習した時にびっくりしたんですね。こんな小さな田舎の藩ですご
い装備をしているなという位進んでいた。それと、明治4年で廃藩置県になりますが、その時に銃は
兵庫県へ渡してしまうんです。三田で甲冑を見ることは少ないでしょう。それは、全て銃に変わった
んです。その時藩主がこの時言ったんですね、。先祖伝来のものを売れといっても皆の気持ちは心理的
に分かると。しかし、これからの時代は甲冑を着て、槍を持って戦う時代ではない。これからは銃の
時代だということで、1丁60両ですね。それで甲冑を売らせて買わせるんです。当時は戦争が何時
始まってもおかしくない状況ですから、他の藩では先祖伝来の甲冑といってももう、300年も経て
ばぼろぼろですわ。ですから、それをこぞって買うわけですね。それで、新しい銃を買って、新しい
兵制を整えた。それは白洲退蔵が行ったんですね。
この後、福沢諭吉の教えで、5年間の給料を先払いしてもらって、私達は商人になるということを新
政府へ訴え出るんです。福沢諭吉自身がこれからは商業の時代だ。官途を選ばず、商業の道を選びな
さいと言う指導をするんです。決定的なのは明治5年の4月に福沢諭吉が三田に来るんですよ。その
時に九鬼隆義は、これからの三田の採るべき道について質問をするんです。その時に言ったことは、
これからの時代は資本主義の時代になりますよ。官途の道を選ばず、商業の道を選びなさい。これか
らは神戸が開けますよ。神戸へ出て行きなさい。三田では器が余りにも大き過ぎるから居るべきでは
ない。むしろ新天地へ出て行って、そこでやったらどうですかという指導を福沢諭吉がするんです。
九鬼隆義はその教えを聞いて翌年、神戸へ出て行くわけです。すると、藩主が神戸へ出て行くわけで
すから、家臣も2/3までは神戸へ出て行きます。だから、三田の屋敷町は閑散としたものになって
きます。人が居なくなってくるんですから…。元々、屋敷は政府のものですから、それを買いたい人
はそれを買ってね…。
神戸へ出てからは先ず、西洋薬品や洋書、横浜の丸善、洋書の丸善という会社、それを福沢諭吉が紹
介するんですね。そことタイアップしてはどうかということで、それではということで貿易商社を興
そうということで志摩山商会というのを作るんです。九鬼氏発祥の地、志摩と三田の三をとって志摩
三商会という貿易商社を作ります。これは、当時、神戸でも最初の貿易会社、株式会社です。だから
対抗する会社がありませんから、儲かって、儲かってという感じですね。新しいものを求めようとい
う人が沢山出てくれば、当然売れますよね。それで、非常に財を成します。それと、志摩三商会での
二本柱というのは西洋薬品と不動産なんです。不動産というのは、丁度六甲山から流れ出る生田川と
いうのがあります。それは当時、居留地を流れていたんです。たびたび居留地が水害に遭うという事
で国が東の方へ付け替えを行うんです。そうすると、埋立地が生まれるわけですね。その時志摩三商
会は自己資金でその土地を買うわけですね。それが、三宮・本町の発展につながって土地が高騰する
わけです。あの一等地を持っているわけです。昔は河川敷の埋立地で、まさか、あそこに家が建って
くるなんて発想は無い。そこに目を付けて買った。それが当たったんです。
しかし、薬品会社は対抗会社が沢山出てくると何時までも殿様商売ではやっていられないわけです。
その時、白洲退蔵は横浜正金銀行の頭取までなるんですが、志摩三商会はあのままではだめかなとい
うことで神戸へ帰ってくるんです。そして、薬品部門を手に収めてしまって、不動産部門を持って、
その資金で奨学金制度を作るんです。これからは武士の商法は失敗するであろう。その時、その子弟
達が学問を受けたいと思った時に受けられないではないか。これはその時の資金にしようということ
で、その奨学金を受けて学問を受けた人は沢山いるんです。その時の領収書は沢山残っています。神
戸九鬼家地下局という会社というか基金を作った。そう云うことを白洲退蔵は行いまして、九鬼隆義
が亡くなった翌年に亡くなる訳です。
白洲さんのお墓は心月院にありまして、今沢山の人がお参りにやってきますが、白洲正子さんのお参
りに来るんですね。時代は違いますが、白洲文平の子供が次郎なんです。次郎さんの奥さんが正子さ
んなんです。そして、次郎さんが亡くなった時に正子さんは自分の墓と2つを建てるんですね。本来、
あの人達はクリスチャンなんです。ですから、墓は建てないんですけど、白洲次郎さんが亡くなった
時に墓を建てて、それを今、白洲正子さんを訪ねてバスを仕立てて来る団体があるんですね。
まあ、白洲家は広大な墓地ですので、これからはお寺に参ってもらわなくてもよろしいと、墓地を半
分お返ししますということで、返還していますけど昔は今の倍以上の墓地があったんです。クリスチ
ャンである為に墓地は要らないということでお返しになったということであります。
それでは、宣教師との出会いということですが、先程の小林先生は神学の先生ですからご専門なんで
すが、私が担当してお話します。
元々宣教師との出会いというのは、三田みたいなところで居留地の神戸の宣教師と接触する機会は何
処にあるんだと、疑問に思われることだと思います。これは、デービスが有馬へ避暑に来たときに、
九鬼隆義は家族で有馬温泉へ行った。そこで出会ったのがそもそものきっかけなんです。それから交
流関係が始まるんです。それ以前に九鬼隆義は宣教師と出会っているんですけどね、本人が洗礼を受
けたのは明治20年なんです。ところが、娘さんが明治6年に亡くなっているんです。明治5年にキ
リシタン禁止の高札が下りたんですね。翌年に亡くなったんですね。元々、九鬼さんは心月院、曹洞
宗の檀家なんですね。お寺でお葬式を行うのかと思ったら違うんですよね。キリスト教式で行うんで
す。そして、墓碑には英文で書いているんですね。日本全体でも、明治6年に英文で墓石に刻んだと
いうのは無いんですよ。それは、私が調べた限りですよ。明治5年に禁制が解けるんでしょ。6年に
その様な事をする大胆な人は居ませんよね。鹿児島でももっとその後ですものね。それ程、寛容にキ
リスト教を受け入れたひとです。本人は矢張り、地元三田であるとか家臣とか、洗礼を受けるといっ
ても中々、絶えず宣教師と付き合っていっても、明治22年に亡くなるんですが亡くなる前に洗礼を
受けています。
その様な教会が、日本で4番目の教会。プロテスタントですけどね。摂津第一公会、神戸教会ですね。
これが出来るのが明治7年。その時、最初に洗礼を受けたのは三田藩士であった鈴木清であるとか、
これはレジュメの明治初年の三田藩士族というところに書いていますように、川本幸民の影響は非常
に大きいですね。そのような関係、川本幸民が明治元年、江戸で戊辰戦争が行われることによって三
田へ帰ってくる。それから明治3年、息子の清一、又は清次郎というんですが、この人が太政官出仕
となって教育関係へ行くわけですが、その間わずか2年半しかないんですが、その間に幸民に教えて
もらった人達が神戸で活躍するんですね。
英蘭塾とかかれた隣に宣教師と書かれたところがありますが、三田では女性宣教師が多いですね。ダ
ッドレーとか神戸女学院の関係者ですが、こういった人達が三田へ伝道に来るんです。この様な人達
の影響を受けて、三田では明治8年、神戸より1年遅れて、兵庫県では2番目に教会が出来るんです
よ。それまでに教会は2つあります。屋敷町の、元々は本町通は江戸時代には突き当たって鍵型にな
っていたんです。鍵型になっていたところの左手に屋敷があってそこに摂津第三公会、三田教会がで
きて、今はバイパスが出来た関係で、バイパスの横に移っております。手前にあるのが摂津第三公会
でもう一つあるのがカトリック教会です。
この様に、三田へ伝道に来た女性宣教師の影響で、当時最初に三田で洗礼を受けたのは16人なんで
すね。この内の10人までが女性なんです。この様なことは他の教会ではないんですね。
明治7年には三田藩士は白洲退蔵を筆頭に、女子にも教育の機会を与えるべきであると…。農民や町
人に教育の必要性を考えた人ですから当然、女子はどうなっているのか…。江戸時代の女性というの
は教育を受ける機会が無いんですね。男の人は藩校で学ぶ。そして、女性は帰って来たお父さんや兄
弟から教育を学ぶ。いわば、家庭内教育なんですね、女子の場合は。それはだめだ。これからの時代
は女子も教育を受けさせるべきだと、そう云うことで立ち上げてくるのが神戸女学院なんですよね。
元々は三田藩士の前田泰一の屋敷で行うんですけれども、狭くなったので白洲退蔵の持ち家に行く。
更に、学校の設立というのを行います。その時に、神戸に居る子女だけではなく、三田に居る子女に
も平等に教育を与えるべきであると、学校だけではなく、寄宿舎つきの学校を建てた。神戸女学院は
…。当時は神戸ホームズ、それが今の神戸女学院ですが、その時日本人の寄付と、アメリカンボード
の寄付で建てたんです。ところが、当時、外国人は土地をもてませんので、神戸女学院の土地名義人
は鈴木清という三田藩士が土地の名義人になっている。
この様にして神戸女学院では三田の人も活躍します。生涯独身で幼児教育に没頭した人も居ます。甲
賀とか、和久山とか、こういう人達は生涯教育に捧げた人で、こういう人達が三田藩の女性に出てく
るわけですね。その後、この人達が大きくなってくると、もっと大事なことはもっと初期の教育にあ
るじゃないかと、幼児教育ですね。ということで、アメリカンボードの女性聖教師だったハウという
人をアメリカから呼んでくるんです。そうして出来たのが頌栄幼稚園、そこに書いていますね。兵庫
県で4番目に出来た幼稚園です。それを立ち上げる。非常に意欲的に、新しいものを取り入れる。本
来、居場所が無くなる(?)新しい時代に、それも高齢者の女性が違和感なく、宣教師に接近して行
ったというのは、普通のところでは考えられない。それも、殆どが侍出でした。こういうのが三田の
入信者の特徴でございます。
そこに同志社の新島襄について書いていますので一寸見てみましょう。新島襄というのは同志社を立
ち上げる前に三田へ伝道へ来ていたんです。だから、三田教会の献堂式では司会を務めております。
という事は三田と近しい関係にあります。初期に同志社へは三田から入学しています。同志社という
と、どうしても熊本バンドといって、熊本英学校の出身者が大挙して同志社へ入った。これが一大勢
力を持って同志社を席巻したということですが、ところが初期には三田の人が沢山居るんですね。と
ころが、最近その辺りが見直されているのは、神戸バンドがあったではないかと…。神戸バンドの主
力は殆ど、三田の人なんですよ。三田から神戸へ行って、そこから同志社へ行っていますから。神戸
バンドというのも一つの組織で、新島襄に近いところの組織であると、そういう事が今、研究されつ
つある。
慶応義塾でも、福沢諭吉のところに、前田泰一、武藤敬蔵、澤茂吉。澤茂吉という人はこの後北海道
の赤心社へ行きます。
最後になりますが、北海道の赤心社についてお話します。この中で北海道の赤心社についてご存知の
方はいらっしゃいますか?
いらっしゃらないですね。赤心社は明治13年に神戸で設立されるんですけど、その時に鈴木清とい
う三田藩士、この人が中心になって会社を興していくんです。社長には鈴木清がなります。この会社
の特徴は明治13年に株式会社を組織して開拓団を北海道へ送るんです。こういう発想は他には無い
んです。株式会社組織は他にもあるんですよ。財閥であるとか、華族であるとか、お金を持っている
人が会社を興す。ところがこの様なのは殆ど成功しないんです。ところが、三田の場合は個人からお
金を拠出するんですね。一株60円。60円といいましてもね、今のお金に換算すると大体30万円
位なんですよ。その100株を筆頭の大沢という人が持つんですけど、後は1株の株主、1株2株の
少ない株主が、当時としては矢張り移住民でも容易に株主になれるように、そう云う人達を集めて、
丁度北海道から九州まで株主を集めているんですよ。当時、こういう事は異常なんですね。もう一つ
の特徴は、こういう開拓団で行く、耕工夫というんですけど、この人達はお金は持っていませんけど、
将来株主になれるということを約束されるんですね。例えば、1ヶ月50銭の給料をもらって10年
経てば株主になれますよということで、希望が持てた。5000円札の肖像画は誰ですか。新渡戸稲
造ですね。彼は当時札幌農学校の先生ですよ。あの人も赤心社の株主なんです。株主になっている人
には当時の知識人が多いんですね。その人達が株主になって、色々指導する。津田仙なんて、東京の
農事師で北海道開拓などには非常に詳しい。この人なんかが株主で居ますから、北海道開拓について
色々教えを請うわけです。今で言えば順風満帆みたいですけど、最初の頃は大変だったんですよ。丁
度翌年に600株になって、そして移民を募集するんですね。広島、岡山とか四国とか、色々な所か
ら移民を募集します。赤心社の特徴は独身の者を墾成組という組織、妻帯者には土地を与えますから、
そして小作人という3段階の層を作って運営します。そして、各々目標を持たせる。こういう風なや
り方というのは、北海道で今120年経って何故、赤心社が残れたかというのは向こうの方のものす
ごく熱心な研究と(?)、その様な組織を作ったということをもう少し知っていく…(?)。三田藩の
武士がものすごく良く指導している。
三田の人が皆行ったんじゃないんですよ。移民は集めたんですが、それを指導したのが三田の人なん
です。この地図を見て頂いたら分かりますが、社長の鈴木清というのは丁度今のカトリック教会の横、
丸印を入れていると思うんですが、真ん中の右ですね。この人が社長です。社長は神戸あって、副社
長は現地で采配を振るう。現地を担当したのは澤茂吉なんです。丁度、真ん中の下のところに澤茂吉
の屋敷があります。この人が現地で指揮を取る。そして、現地で書記となるのが和久山磐尾という人
です。その他には、森田とか、向井とか、竹内とか、こういう人達が向こうで指導者になる。養子が
竹内雄四郎というんですけれども、当時赤心社は無医村だったんですね。当時竹内は同志社病院の医
者です。澤茂吉はここでやるのもいいけど、何とか無医村に来てもらえないかと頼むんです。他の人
を色々当たったけれども誰もいないので本人は家族を説得して、今でもその竹内という家は北海道に
ありますけれども、そのようにして数少ない指導者達の結束もあって、今日まで赤心社が残っている
ということです。
他と違うというのは、多くの個人の株主を募ったということと、階層を作って各々の目標を作ったと
いうことですね。株式会社ですから、当然利潤を追求しなければいけないわけですから…。当時福沢
諭吉は複式簿記を採用しているんです。明治13年に複式簿記を行っていた。当時の農民達に複式簿
記を採用するという発想が先ず無かったということね。こういう所にも福沢諭吉の影響を色濃く残し
ています。
色々な要素があって、今まで残ったということだと思うんですけれども、いずれにしても、その辺り
の所を殆どの三田の人が知らないと、そんな話、何の話やと言う様な状況の中で、こういうような開
拓団があったんだと、もう少し時間を掛けてお話したいんですが時間が来ましたので赤心社の話をや
めますが、そのように苦労して北海道で頑張って、今まで残って、北海道の赤心社の人達が三田を我
が故郷と思っているが、三田の人達はそうは思っていないんですね。その辺のギャップというのが非
常に大きい。ですから、私が最初に聞いた、「赤心社をご存知ですか」という、恐らくそう云う話をし
ないと聞いてもらえないのじゃないかと思って、今日のテーマの中にも入れておりますが、この様な
人達も活躍したんだということを…。
明治時代の三田藩の士族たちは色々な所で活躍をしております。一つ一つご紹介すれば良いんでしょ
うが、時間も参りましたのでこれをもちまして私の講演を終わります。ありがとうございました。
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