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今日は。時間のある限り話させて貰いますが、兎に角、幸民は本当に偉い人だったんで
す。私が彼を知るようになったきっかけは、今から八年前、大阪の或る出版社の編集長か
ら、人名辞典から彼について書かれたポケットティッシュくらいの大きさのコピーを渡さ
れて、「偉い蘭学者がいます。調べて書いてくれませんか」ということで、何も知らない
まま、とりあえず、ご当地を訪れました。それからほとんど毎週一回、半年ほども通いま
した。江戸から帰郷した幸民が英蘭塾を開いたという金心寺廃寺跡等など、あちこち歩き
回りました。編集長の意図は、「現在全国的に起きている地ビールブームに、日本で最初
にビールを作った幸民をぶつけたら、必ず売れる」ということだったのでしょう。ところ
が当時、私は京都の親験実試主義や大坂の合理主義に基づいて実践を重視する関西の蘭学
者に惚れ込んでいました。幸民は江戸で修業し、江戸で活躍した人物です。だからあまり
気乗りがしなかったのです。ところが調べていく内に、こんな偉い人が江戸時代にいたん
だと、完全に幸民にのめり込み、『黒船なにするものぞ、蘭学者川本幸民』を書いたので
す。
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さて、本題に入りますが、幼少期の本人にとっては育ち方、親にとっては育て方ですが、
要は自立させるためにあるのです。これは鳥や獣も同じです。餅を自分で捕まえられない
内は親が与えてやるが、成長するにつれて自分で捕まえられるように導いてやる。親が心
しなければならないのは、何でも子供の代わりに親がやってしまうことです。これでは子
供の自立を阻害してしまいます。子供が独り立ちしていくのを暖かく見守ってやるのが親
の本当の愛情なのです。
文化七年(1810)、幸民は三田藩医川本周安を父として、七人兄弟の末子に生まれ
ました。当時は長子相続です。だから当然独り立ちする道を探らねばなりません。そんな
思いを特に強くすることが幸民に二度起こります。
最初は彼が一○歳になった時です。彼の父周安が死去し、長兄に親代わりとして育てら
れることになり、藩の学校に入ります。だから彼は昼は学校で、夜は夜で町の長老の元に
通い、猛烈に勉強します。そして二・三年もすると、藩の学校で彼に太刀打ちできる者は
年上の者を含めて誰もいなくなります。能力も優れていたのでしょうが、やはり一日も早
く自立しなければという思いが人一倍強かったからでしょう。しかし、このことが彼と上
級武士の子弟との間に大きなしこりを残します。当時は今より身分差別が激しかった。そ
の時代に藩医という位の低い者を親代わりとする彼に誰も頭が上がらないというのは、当
然、苛めの原因になります。それが後々大きな事件を引き起こします。
もう一度は二十歳の時です。幸民の優秀さに注目した藩主隆国が、彼を抜擢して江戸遊
学に連れていくことになり、彼は藩医の長兄と共に出府します。ところが江戸について一
月もたたない内に急病で兄が亡くなります。郷里にいる年老いた母や兄嫁やまだ幼児である
兄の嗣子など、国元の川本家を誰が守るのか、ということが問題になります。「藩主に蘭
学を学ぶ絶好の機会を与えて戴いたが断念するほかはない」と幸民は決断し、隆国に願い
出ます。藩主は彼に言い聞かせます。「心配するな。川本家のことは余に任せておけ。幼
児が成長するまで、その母を保護者として、川本家は守ってやる。お前は学業に専念せよ。
そしてナチュールギュンテ、自然の理を我が物にして、やがてやってくる西洋列強から、
学問の力で我が国の六十余州を守れ」と。藩主隆国は優れた人物でした。一八歳の若さで
藩主の座に就いてからは、京都から講師を招いて藩の教育制度を一新したり、同じく京都
から名陶を連れて来て廃れつつあった三田青磁を再興したりして、三田藩中興の祖と称え
られた人物です。しかし、三田藩は外様大名で三万六千石の小藩です。これでは幕府の政
り事に関与することなど到底できません。又、隆国は九鬼水軍の末裔です。遮るものの何
もない大海を動き回った先祖の血が脈々と流れています。しかし領民のことを考えると、
藩主である自分はなにをするにも幕藩体制の枠をはみ出すことは出来ない。せめて幸民に
学問の世界で飛躍して、夢を適えてほしいというのが隆国の真情だったのです。 こうし
て幸民は自らの自立の道を学問によって真理を掴むという難題に定め、研鑽していくこと
になったのです。
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ここで本題を逸れますが、テーマの中の「その時その人」に少し触れます。
当地から少し大阪よりに名塩村という所があります。文政五年(1822)、つまり幸
民と一廻り下ですが、その村で億川百記という人に八重という娘が生まれました。彼女は
後に幸民と無二の親友だった緒方洪庵に嫁ぎます。ところで八重は第五子で長女でした。
上の四人は男子で、長男は生存しますが障害が残り、残りの三人はすべて幼い内に死ぬ、
いわゆる夭死でした。いつの場合も、呼んだ医者がやっと来てくれた時は、もう手遅れだっ
たのです。親にとってはどんなに辛かったことでしょう。だから今度誕生した八重だけは、
どうしても死なせたくない。その思いが父の百記に思い切った行動をとらせました。大坂
の中天游という蘭学者に入門して医学の勉強を始めたのです。当時、父親の百記は既に三
五歳でした。何故、働き盛りの人が自分の本業を放っておいて、こんな無謀なことが出来
たのでしょう。それは名塩村という村の特殊性にあります。この村は江戸時代の始めは福
知山朽木藩の所領であり、元和六年(1620)に没収されて幕府領になります。そして
八重が生まれた少し後の文政十一年(1828)に尼崎藩の領地になりますが、その間、
凡そ二百年も幕府領だったのであり、当時はまだこの名塩村を幕府は手放そうとしてはい
なかったのです。それはこの村が独特の和紙を生産したからです。村には数十の製紙家が
あり、それぞれが独特の配合で作ったので紙質がすべて違い、これを用いて藩札を作った
場合、他藩の藩札と容易に識別でき、偽造される危険がなかったのです。だから各藩が発
行する藩札のほとんどが名塩和紙で作られたことで、この小さな村を所領することは、言
わば、金の成る木を手中にすることだったのです。だからこの名塩村に住み、製薬業を盛
大に営む億川家も潤沢な経済力をもっていたのでしょう。
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話を主人公の幸民に戻しますが、彼も二○歳になり、青春期を迎えます。青春期の特徴
は学問・友情・恋ですが、どちらかと言えば不器用な彼がこの時期をどう乗り切ったので
しょうか。 最初、幸民は兄が生前に話を進めてくれていた江戸在住の篠山藩医の足立長
雋の塾に入門しますが、「ナチュール・ギュンテを我が物に」という幸民の高い志しを知っ
た師の長雋に、「豈に余の教えを俟たんや」と、わずか一年で坪井信道塾を紹介され、彼
はそれに従って入門します。数カ月後、その塾に緒方洪庵が入門してきます。二人は同い
年であり、いずれも前の師で足立長雋や中天游に「これ以上は教えることがない。さらに
適した師について励め」と、当塾を紹介されてやってきたこと、入門時にされた実力診断
で最上級の助教と認定されたこと、幸民は「ナチュール・ギュンテを我が物にし、いずれ
はやってくる西洋列強から六十余州を救う」、洪庵は「自分は病弱だから病人の思いはよ
く分かる。だから病む人々を救う町医者になりたい。とりわけ多くの人々をが罹る流行り
病いについて極めたい」と、いずれ劣らぬ崇高な目的を抱いていることなどから、幸民は
洪庵という生涯を通じての無二の親友を得たのです。
次に、その翌年のことですが、師の坪井信道が結婚することになり、その式で新婦の父、
我が国屈指の窮理学者であり、水戸藩医でもある青地林宗に、幸民は紹介され、その後も、
可愛がられて、窮理学の書『気海観瀾』の増補改定を依頼されるなど、ナチュール・ギュ
ンテに近づく糸口を得ます。
第三に、幸民は林宗の家を訪問したりしている内に、青地家の第三女で、師の信道の妻
の妹である秀子と恋に落ちます。
最後に、二年間を研鑽を積んだ信道塾を終えて独り立ちする時がきた幸民は、秀子との
結婚を考えて、隆国に分家の設立と江戸永住を願い出ます。しかし、隆国は即答を避け、
「そう慌てるな。余の今回の帰郷には同行せい。そして、年寄に騙されたと思って、大坂
や京都を巡って関西の蘭学の状況を掴んできてみよ。きっと其の方の後々に、役立つ筈じゃ
」。これは、隆国が常々感じている、関西と江戸の学問の立脚点や方法論の違いであり、
それを知ることが幸民の将来のために必要だという配慮からでした。そんな訳で幸民は随
行して帰郷してから、三カ月ほど大坂での洪庵の師中天游や大坂蘭学の祖と称せられる橋
本曇斎に会うなど、関西を歴訪し、京都の親験実試主義や大坂の合理主義に接します。そ
して、学問に一番必要な方法論をつかみ取ります。それは何か新しいことを知ると、それ
を鵜呑みにするのじゃなく、必ず自分で実際に試してみる。実際それが幸民のその後の人
生で、マッチ・電信機・ビール・カメラなど日本で最初に作ったことに、どれだけ役立っ
たことでしょう。郷里に戻った幸民は目を輝かせながら隆国に報告します。「知るは易し、
得るは難し、ということを学んできました。殿のお陰です」。彼の言葉と表情から、彼は
もう大丈夫だと確信した隆国は、彼の願い通り、分家を許し、江戸在住の藩医を命じます。
このように幸民は藩主隆国の庇護の元で、学問・友情・恋のすべてを手に入れる素晴ら
しい青春時代を送りました。
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そして天保六年(1835)十二月、二六歳になった幸民は秀子と結婚し、芝露月町に
新居を構えます。しかし良いことばかりは続かないものです、その後三カ月しか経たない
翌年の二月、幸民が藩の上役の者を切り付けて怪我をさせたという信じ難い事件が起きま
す。このいわゆる刃傷事件なるものについては藩史に何の記録もありませんし、幸民自身
も後年、死の直前に書さ残した遺書に「不慮の事故に遭い、その時も殿に救ってもらった
…」としか記していないので、真相はまったく不明です。藩医であった幸民が大刀を携え
ているはずがなく、もし仮に彼が脇差を帯びていて切りつけたとしても、武術の心得のあ
るはずもない彼に、二本差しの武士が不覚をとっつたというのは、武士社会では相手側にとっ
ても、恥でこそあれ名誉なことではありません。それに幸民が藩上屋敷で酒を頂戴したと
しても、酒豪である彼が昼間から自らの身分を忘れるほど飲むはずがありません。おそら
く家柄だけを傘にきたどうしようもない連中が、何処かで昼酒をかき食らい、酔っ払った
揚げ句の諍いで、仲間内の一人に傷を負わせてしまい、始末に困っていたところに、通り
かかったのが積年の反感がある幸民だったので、これ幸いと罪をなすりつけた、というの
が事実ではなかったかと推測されます。幸民は藩江戸屋敷内に拘束されます。当事者双方
の言い分は真っ向から対立します。目撃した第三者はいません。白黒の決着が困難なこの
事件から幸民を救ったのが彼の遺書にある「殿に救ってもらった」なのです。隆国は藩内
で事件への反響が静まるのを見計らって、傷ついた相手には見舞い金を支払ってやり、事
件への口を封じ、幸民には江戸所払い・蟄居謹慎を命じます。
幸民は蜜月の妻を江戸に残して、浦賀で蟄居生活を過ごすことになります。彼はこの間、
親友の洪庵が大坂で適塾を開いたのを知って羨んだり、世に出るのが遅れる自分の境遇を
嘆いたりもしますが、偉かったのは、そんな境遇に負けることなく、むしろ逆に学問しか
することのない蟄居生活を活用して、今は亡き義父、青地林宗に託された著書の改定増補
として『気海観瀾広義』を脱稿したり、天保八年(1837)に出版された宇田川榕庵の
『舎密開宗』に学んで、舎密学も自家薬籠の物とし、さらに後の黒船来航時に絶大な威力
を発揮することになる『遠西奇器述』まで着手し始めるのです。
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そして幽閉されて五年が経ち、天保一二年(1841)、幸民はやっと許されて江戸に
戻ってきますが、既に三二歳で、学問仲間より相当遅れての再出発です。しかし、蟄居時
代の独りっ切りの奮闘があります。だから実力ではすでに一人前の蘭学者です。彼は恩義
のある隆国に会えないまでも、せめてお側近くにと、住まいを転々と変えながら、着手し
ている西洋の最新の文明利器について原理構造を解明することに励みます。そして江戸復
帰四年後の弘化二年(1845)、この年は良いことが重なります。
まず一つ目は藩医復帰の命が下り、その前年に隠居した隆国の主治医に返り咲けたこと
です。
二つ目は『遠西奇器述』を校了出来たことです。彼は喜び勇んで報告しますが、隆国は
言います、「よく頑張った。しかし、今は出版してはならぬ。弓は絞りに絞って放てとい
うではないか。時期を待つのだ。その書で六十余州を救う時が必ず来る」。たしかにその
通りで、大船の建造さえ幕府が禁じている当時、もし出版を強行していれば、妻同士が姉
妹であることから幸民にとって年上の義弟にあたる高野長英の二の舞を演じるだけだった
でしょう。
三つ目は薩摩の島津斉彬から翻訳の依頼があったことです。振り返ると天保五年(18
34)に関西を歴訪した時、彼は「知るは易し、得るは難し」という親験実試主義を掴み
ましたが、それはまだ「知る」から「得る」への飛躍の鍵は自分一人の実践だけでした。
斉彬は阿部正弘や松平春嶽など幕閣から信頼と期待を寄せられている人物ですから、いず
れ近い内に藩主の座に就かれる。そうなれば、自分の「知ったこと」を新しい藩主の斉彬
に伝えさえすれば、強力な薩摩藩の集団実践で検証してもらえる。自分は七十三万石とい
う力強い後ろ盾を得た。そう感じた幸民は会心の笑みを浮かべました。そして実際、嘉永
四年(1851)、藩の危機まで招きながら、愛妾の子の久光に座を譲る機会を窺い続け
た薩摩藩主の斉興が、開明的な大名たちの、正嫡で嗣子の斉彬こそ後継の藩主にふさわし
いとする正論に抗しきれず、ついに隠居し、斉彬が藩主の座に就いたのです。
ところがやはり良いことばかりは続きません。嘉永元年(1848)には師の坪井信道
が、嘉永五年(1852)には恩人の隆国が、次々と世を去ってしまいます。信道が病に
倒れた時は、幸民は自分が病床に駆けつけるだけでなく、師匠の病状に応じた適切な治療
法がないものかと、大坂の洪庵に意見を求めたり、適塾に遊学している信道の養子信良を、
信道の看病に江戸に返らせるよう塾主の洪庵に頼んだり、そんな幸民の緒方洪庵宛の書簡
が現存し、二人の交情の深さを知ることが出来ます。
隆国の場合は幸民自身が主治医ですから、もちろん付きっきりで看病に当たり、その数
カ月間、幸民はその病いが老衰で有効な治療が施せないのを悲しみはしますが、同時に恩
人と寝食を共にできる喜びも味わいます。そして隆国は苦しむことなく七三歳の生涯を閉
じますが、彼の心臓の鼓動が止まった瞬間、幸民の思いは突然飛躍してしまいます。仏教の信
者でもない幸民が、頭を丸めて他門に入り、殿様の冥福を祈ろうと。幸民は晩年の遺書に
も、「業を修むるの間、費を給し玉ふこと、常例に踰越し、其恩実に躯外に溢る」と記し
ています。実際、彼の小遣い帳によると、江戸遊学中に隆国から援助してもらった額は実
に百五十両を超えます。それだけではありません。「ナチュール・ギュンテを我が物にし
て云々…」という壮大な学問の目的を与えられたのも、刃傷事件に巻さ込まれた時、救っ
てくれたのも、藩主隆国でした。そんなこと全てが脳裏を走馬灯のように駆け巡り、身体
一杯に充満し、幸民を突飛な行動に走らせたのです。このような場合、理を諄々と説く説
得は何の役にも立ちません。一撃で正気を取り戻させるような厳しい叱責こそが必要なの
です。その役割を果たしたのが斉彬でした。彼は顔面朱を注いだような形相で、幸民を怒
鳴りつけます、「先生を買いかぶっておったわ。この国難の時に頑を丸めるじゃと。勝手
になさるがよい。さぞ隆国殿もお喜びのことじゃろうて」。この厳しい叱声がかけられた
魔法を解き、憑き物を落とし、幸民に正気を取り戻させたのです。
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この翌年は嘉永六年(1853)、幸民は働き盛りの四四歳です。
六月、提督ペリーの乗船する蒸気船サスクハンナ号を旗艦に、同じく蒸気船のミシシッ
ピ号と帆船二隻の四隻からなる艦隊が浦賀に来航します。
黒煙を吐きながら波を蹴立てて疾駆する黒船の噂は、有ること無いこと膨らみに膨らみ
ながら、我が国全土に広がり、あらゆる階層の人々をカルチュア・ショックに陥れます。
当のペリーはアメリカ大統領の国書を無理やり手渡すと、翌年、さらに大きい艦隊を率い
て返書を受け取りにくると威嚇的に宣言して悠々と去っていきます。
その翌月の七月、対応策に苦慮した幕府は、異例にも諸国大名や幕臣のみならず諸藩の
家臣にまで、対応策を申し出るよう求めました。
しかし、開国論は佐久間象山など一部の積極的交易論を除いて、ほとんどが黒船から受
けたカルチュア・ショックによる無条件屈服論であり、一方、空元気の鎖国堅持・攘夷論
も、「鎖国は我が国の祖法であり、打ち払うべきである」と力むだけで、戦いの展望につ
いては一切口を噤みます。結局、提出された意見書は、「のらりくらり交渉を引き延ばす
以外に道はない」という水戸斉昭の‘ぶらかし策’に集約されざるをえなかったのです。
一方、庶民の間では、想像で描いたペリーの世にも恐ろしい似顔絵を載せた瓦版が飛ぶよ
うに売れ、交渉の際、船上で振る舞われたという目新しい飲み物が話題になり、カルチュ
ア・ショックにとり憑かれた人々は、それが国の優劣に何の関係のない飲み物のことであ
るにもにかかわらず、「そうだから、西洋には適わない」と、話を締めくくる始末です。
ここで幸民が立ち上がります。会得してきたナチュール・ギュンテでもって、西洋列強
から六十余州を守る時が、まさに到来したのです。
彼は考えます。問題の本質は現在国論を二分している開国か攘夷かではないのではない
か。開国するにしろ、攘夷に走るにしろ、国中を覆っているカルチュア・ショックを一掃
もしないままでは、いずれ西洋列強の餌食にされてしまう。局面打開の鍵は、カルチュア・
ショックを克服することだ。そのためには黒船の正体を暴き出して、何も恐れることはな
いんだ、我々日本人にも建造することが出来る、ということを我が同胞に分からせること
だ。自分はすでに弘化二年(1845)に校了した『遠西奇器述』で、蒸気船の原理と構
造を明らかにしている。大船・蒸気船建造の禁が解かれた今、すぐに発刊しよう。それに
斉彬には、初めて翻訳を依頼された時に、その草稿を渡してあるから、薩摩ではもう建造
に取り掛かっている筈だ。そう考えた幸民は出版するための行動を起こします。
それからもう一つ彼は考えました。庶民の中で話題の種になっている我が国にはないと
いう珍しい飲み物のことです。彼にはそれが西洋でビールと呼ばれる麦酒であると、すぐ
分かりました。それも自分の手で作って、庶民の中にあるカルチュア・ショックを吹き飛
ばす力にしてやろうと考えて、茅場町の自宅の庭に炉を築き、醸造に取り掛ります。
そして黒船来航から三カ月過ぎたその年の九月、ビールの試醸に成功した幸民は、浅草
曹源寺の義父青地林宗の墓前で、知っている限りの蘭学者を招いて試飲会を催し、何事が
始まるのかと集まってきた人々にも気前よく振る舞います。どちらかと言うと目立つこと
が嫌いな筈の彼がこのような派手な行動をとったのは、そうすることにより世間の関心を
出来るだけ集めて、どんな未知な物でも原理さえ分かれば誰にでも作れるということを、
口から口へ伝えて、広めてもらいたかったからです。
その翌年のペリー再来港で、幕府は余儀なく日米和親条約を締結しますが、丁度その時
期に、『遠西奇器述』が発刊されます。時期が時期だっただけに、藩という藩は国防のた
めのバイブルとして先を争って求め、蘭学者など当時の知識人を自負する人々はこの書を
読んでいなければ、その資格を疑われかねない有り様で、注文が殺到します。そしてすで
に建造に着手していた藤摩藩は、この翌年の安政二年(1855)、我が国で最初の蒸気
船である雲行丸を完成させ、宇和島伊達藩や佐賀鍋島藩など海防に関心をもっていた藩で
も、お抱えの蘭学者と藩に駆り出された「からくり細工」の職人が、この著書と首っぴき
で、実物の黒船とは比較にならない小さい雛形ですが、同じ時期に完成させていきます。
少し後の安政四年(1857)、幕府が注文した蒸気船の軍艦ヤパン号、これは我が国
に引き渡された後、日本史上、太平洋横断で有名な咸臨丸に号を改められるのですが、こ
のヤパン号に乗って来日し、幕府に船を引き渡した後、そのまま長崎に新設された海軍伝
習所で、勝海舟や榎本武揚を教育したオランダのカッテンディーケは、帰国後に著した
『滞日日記抄』で、「ペリー来航で蒸気船に初めて接してから僅か数年で、誰に教えを受
けるでもなく独力で蒸気船を作り上げた日本人の知力と気力には、唯々驚嘆し心から敬意
を捧げる」と記しています。
ペリー来航のわずか一年後に、当の蒸気船を初めとして西洋列強が誇る最新の文明利器
の原理と構造を明らかにする書籍を発刊し、さらにその書と首っぴきで独力で蒸気船を作
り上げた我が国の人々の知力と技術力と気力、これが西洋列強に、「この国は他のアジア
諸国と違う。インドや中国のような訳にはいかないぞ」と、軍艦と大砲で威嚇して植民地
化するという彼らの従来のやり方を断念させたのです。同時に黒船の異様さを初めて目に
して、単細胞的に開国派と攘夷派に二分された我が同胞に、我々日本人にも作ろうと励め
ば作ることが出来るという確信を与え、我が国全体が陥っていたカルチュア・ショックを
払拭することが出来たのです。
当然のことながら、この時を境にして幸民の身辺は賑やかになります。
少し時は戻りますが、安政元年五月、すでに適塾で学を修めた橋本左内が、「江戸に出
たら幸民に学べ」という洪庵の指示により幸民の門を叩きます。幸民は私塾を設けたり門
弟を抱えたりするつもりはありませんでした。しかし、この話の始まりが親友の洪庵から
出たものであり、その上、最近、頼りにしている斉彬が、橋本左内の藩主である松平春嶽
に自分のことを我がごとのように自慢したことに発した話でもあり、むげに断る訳にいか
ず、結局、入門を認めます。橋本左内は何せ松平春嶽の懐刀と言われ、体が幾つあっても
足りないほど忙しい身体、幸民の元にいたのは、飛び飛びで合せても一年に満たない短い
期間でしたが、にもかかわらず、幸民にとっては忘れることのできない弟子だったようで
す。安政三年(1856)、幕府は従来、天文方の元にあった蕃書和解なる外国の書物を
研究する役所を、独立させて蕃書調所と改称した洋学所を設立することになり、教授を人
選しますが、一躍、世間の脚光を浴びた幸民の名が挙がらないはずがなく、彼を教授手伝
に取り立てます。その翌年五月には、既に隆国がいない三田藩では働く場所さえ与えられ
なくなった幸民は、ついに以前からしきりに誘われていた藤摩藩に移籍します。ところが、
その一年も経たない安政五年(1858)七月、肝心の斉彬が急死してしまい、「殿様と
自分が組んで…」という幸民の夢はあっけなく消えてしまいます。そして世の中では、井
伊大老による安政の大獄が吹き荒れ、橋本左内も捕縛され、翌年には殺害されてしまうの
です。
それでも幸民は歯を食いしばって、もう一度、我が国を襲ったカルチュア・ショックに
立ち向かいます。それは我が国の歴史書に誇らしげに記載されている「咸臨丸の太平洋横
断」によるものでした。アメリカ滞在中に西洋文明の洗礼を浴びてきた使節団は帰国後、
その素晴らしさを語らずにはいられません。その中に写してもらった自分の写真を持ち帰っ
た川崎某なる人がいます。当時、我が国で写真と言えば銀板写真のため複製は出来なかっ
たのです。それでも写真に撮られたら魂を抜かれると、一般の人々は怖がったものです。
ところが持ち帰った物は増し刷りされたものです。そこでまたお決まりの「これだから西
洋には到底かなわない」というセリフが発せられます。幸民にはそれが湿板写真と呼ばれ
るものであることは明らです。「よし、それなら」と彼は翌年の文久元年(1861)、
湿板写真にも、増し刷りにも成功します。これは実に写真の元祖と称えられる下岡蓮杖と
上野彦馬がそれぞれ横浜と長崎で写真館を開業する一年も前のことだったのです。
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文久二年(1862)、緒方洪庵が幕府に招かれて奥医師として江戸に来ることになり
ました。彼を江戸に招致したいという話はかなり以前からありました。幸民もそのことを
何度か聞いていましたが、その都度、洪庵が身体の強くない事を思いやって、反対してき
たのです。当の洪庵は尚更です。生まれつき身体の弱い自分は病いの苦しみがよく分かる。
だから、人々の病いを治すことを生涯の目的にしよう。そう考え励んできて、今では医師
番付で勧進元にあげられるほど、町の人々の信頼を得るようになったし、長年にわたって
人々の誤解と悪評を受けながら続けてきた種痘の事業も、ついに全国に先駆けて官許を得
るに至った。それに自分を育ててくれた蘭学を次の世代に伝えようと始めた適塾も、今や
我が国有数の学塾になった。その大坂を捨てて、江戸に出て来いというのか。だから洪庵
は固辞してきたのです。しかし、江戸からの要請は執拗でした。最後には蘭学界の長老伊
東玄朴や林洞海まで乗り出してきて、それが幕府の厳令であると伝えてきたので、ついに
断ることができなくなり、やむなく受けたのです。洪庵はその心境を、長崎で修業中だっ
た二人の子息に書いた手紙の中で、「道のため、子孫のため、討ち死の覚悟で」と、述べ
ています。そしてこの年の八月、
「よるべぞと おもひしものを なにはがた あしのかりねと なりにけるかな」
という、まるで辞世の句かと思えるような一首を残し、大坂を去り江戸に出ます。彼の出
府に反対してきた幸民も現実に懐かしい洪庵の顔を見ると、嬉しくて仕方がありません。
幕府奥医師と西洋医学所の頭取を兼任して、幕臣になった洪庵に続いて、斉彬が亡くなり、
薩摩藩に留まっている理由もすでになくなっていた幸民も幕府の臣藩に移ります。五三歳
の二人に青春の日々が再び甦ったのです。しかし、そんな楽しい日も長くは続きませんで
した。翌年の文久三年(1863)六月一〇日、洪庵は突然多量の血を吐いて急死してし
まいます。亨年五四歳でした。想像もしなかった青春の日々が甦り、それが又、何の予告
もなく、取り上げられてしまったのです。喜びが大きかっただけ、再びそれを失った悲し
みは言語を絶した筈です。喜怒哀楽を外に向かって表現出来るのは、その感情がまだ許容
範囲内にあるからです。ある感情が限度を突き破った時、人はその感情を表現出来なくな
るだけでなく、一切の人間らしい活動を放棄した状態に陥ってしまいます。通夜の席での
幸民の茫然自失の姿は恐らくそうだったのでしょう。
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幸民は洪庵の死が与えた悲しみを無理やり圧し殺し、外見上は元の暮らしに戻り、開成
所と改称された学問所にそれまでと同じように出仕し、彼に与えられた役割をこなしてい
きます。そして明治維新のわずか一年前の慶応三年(1867)、時宜を得た彼にしか出
来ない仕事を成し遂げます。
その一つは、かつて適塾で学んだ洪庵の弟子で福岡黒田藩の重臣、武谷椋亭に新年早々
の一月四日附で書簡を送り、その文面に「是非共九州之大諸侯御奮発下され、九州を制し
政府の悪習を御改革下されず候ては、諸民塗炭之患に陥り申し候。…東国之諸侯はさて置
き、西国之力を併せ御説波之有り度事に御座候…」と記し、九州の雄藩に奮起してもらい、
従来の政治を改革し、王政復古、大政奉還を実現するほか、人民を塗炭の苦しみから救う
方法はないと要請したのです。学者馬鹿という言葉がありますが、この時まで一度も政治
に口を出してはいませんが、それは幸民が政治に関心を持たない学者馬鹿だったからでは
なかったのです。何度も言いますが、幸民は幕府の学問所である開成所の重鎮なのです。
その彼が幕府を倒してしまえと発言したのです。まさに渾身の力を込めてという表現がぴっ
たりではありませんか。
二つ目は、世の中の動きから、「これからは英語の世の中だ」と感じた幸民は、文字ど
おり五十の手習いで始めた英語力を駆使して、X・D・ペイルの英蘭対訳の会話文典を翻
訳して、誰でも学べる英語会話のテキストとして、『英吉利会話』を出版します。
そして慶応四年(1868)、この年は九月に改元されて明治元年になるのですが、最
早これまでと、幕府を見限った幸民は自分だけでなく、この二年前に開成所の教授手伝に
抜擢されて、親子一緒に出仕するようになっていた子息の清一も、職を辞めさせ、この年
の七月、江戸を発ち、何か目的があったのか、非常にゆっくり五カ月もかけて、改元され
た明治元年十二月、生まれ故郷の三田に帰りつきます。そして年が明けると、早速、屋敷
町の金心寺廃寺跡に英蘭塾を設立します。彼の名声は、地元の三田だけでなく、関西各地
に響き渡っています。だから収容しきれないほどの人々が詰め掛けました。そのために方
仙寺に分校まで設けて、すでに一人前の蘭学者に成長している子息の清一と共同で取り仕
切ることになります。ところが、開講してから一年も経たない明治三年七月、子息の清一
が太政官出仕となり、塾を急遽閉じます。幸民はこの時すでに身体の不調を感じていて、
子息の清一を東京に行かせて、自分一人で塾を取り仕切ることは困難だと判断したのでしょ
う。だからやむを得なく子息に付いて、再び東京に移住することになります。その不吉な
予感は的中して、その一年後の明治四年六月一日、死去してしまいます。
覚えておられるでしょうか。黒船来航で我が国全土がカルチュアショックに陥った時、
庶民の間で話題になったビール試飲会のことを。「他愛もないそんな下らぬ物で驚くな。
儂がすぐに作ってみせてやる」と、自宅の庭で醸造して、盛大に試飲会を催したのが浅草
曹源寺の義父青地林宗の墓前でした。そして死去した今、幸民はその義父の墓の隣に葬ら
れたのです。亨年六二歳でした。
この三田出身の蘭学者、川本幸民の見事な生きざまは、我々、現代に生きる者に大きな
教訓を与え続けてくれることでしょう。
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