水軍九鬼氏と三田・神戸の歴史

『九鬼奔流』の概要

2005年6月14日

三田藩九鬼氏は織田水軍の将として石山本願寺の合戦で村上水軍を撃破、一躍日本一の水 軍の将へと上り詰めた九鬼嘉隆を藩祖とする。親子が分かれて戦った関が原の合戦に敗れ た嘉隆が壮烈な死を遂げた後、九鬼家はお家騒動によって徳川幕府に海の見えない三田と 綾部の山国に押し込められた。

海を離れた日本一の水軍はやがて学問に力を注ぎ、したたかに生き延びた。
三田藩十代藩主九鬼隆国は中興の祖としてその名も高く、藩校を充実整備し学問を奨励す ると共に、三田が生んだ天才、川本幸民を抜擢し、大科学者へ育て上げた。
幸民は、いじめ、十一代藩主との確執、刃傷事件による蟄居など、あらゆる困難を乗り越 え、名君隆国の恩義に報いるべく蘭学によって西洋科学を極め日本一の科学者を目指して 勉学に励んだ。

幸民は当時、世界でも最新の科学技術書を翻訳し、『化学新書』『兵家須読舎密真源』『遠西 奇器述』『気海観瀾広義』等など数多くの書を著して近代文化を我国に紹介した。“化学” という言葉は『化学新書』において、幸民が初めて我国で使用した。また、『化学新書』は 原子の概念を我国に初めて伝えた科学史上の歴史的著作である。しかし、幸民は西洋科学 書の翻訳に終始しただけではなく、写真、マッチ、ビールのような化学の知識によって初 めて作り得る近代化の産物を我国で最初に試作するという実験的業績を残すと共に、島津 斉彬に請われて薩摩藩が近代化のために行った集成館事業を技術面で支え、また蕃書調所 筆頭教授として後進を指導するなど我国近代科学技術の発展に大きな役割を果たした。
特に、ペリーの黒船来航は蒸気船をはじめ近代科学技術で日本を圧倒、日本全国を恐怖の どん底に陥れたが、その時行ったビールの醸造は、広く国民に勇気を与え、直後に出版し た『遠西奇器述』は各藩こぞって購入し、蒸気船建造に乗り出した。正に、日本を救った 大恩人といっても過言ではない。

戊辰戦争で幕府の崩壊を察知した幸民は開成所(蕃所調所を改組)教授の職を辞して三田へ 帰り、息子清一と共に英蘭塾を開き、三田藩士のみならず、近隣の篠山、柏原などからも 大勢の生徒を集め、「世界に目を向けよう」と、英語と科学技術を教えた。ここで学んだ生 徒たちからは後の男爵九鬼隆一や初代東京大学心理学教授元良勇次郎をはじめ有為な人材 を輩出し、各方面で活躍した。

また、幸民は最後の三田藩主九鬼隆義に福沢諭吉を紹介した。西洋かぶれの隆義はアメリ カ贔屓の諭吉と意気投合、生涯この関係を大切にした。このような中で隆義は諭吉の助言 で神戸へ移住し、志摩三商会を設立、商業を起こし成功を収めた。また、三田藩士鈴木清 は岡山の加藤清徳と北海道開拓会社赤心社を設立し、成功に導いている。
一方、隆義は有馬で避暑に来ていた宣教師デイヴィスと知り合い、家族ぐるみの付き合い が始まった。未だ、キリスト教が邪宗門として厳しく禁止されている時代にである。これ を機に宣教師たちは危険な山道を通って三田伝道を繰り返し、多くの三田藩士たちは隆義 の庇護の下、医学や語学修得を目的に宣教師と積極的に交流した。宇治野村英学校設立を 皮切りに、神戸女学院、神戸教会創立、更には頌栄保母伝習所・幼稚園創立へと三田藩士 たちは主体となって行動した。ここで、三田藩主や三田藩士たちが近代女子教育や、幼児 教育の発展に果たした役割は日本の教育史上特筆すべき事跡である。