『天上の友』より

ジェローム・ディーン・デビス博士

2006年6月18日

 デビス博士は一八三八年一月十七日北米ニューヨーク州グロートンに生まる。 其の祖先は英国ウエールスより来る、米国新英州に住して世々高潔剛健の人士 輩出す。ジェローム幼にして学を好む。家計豊ならず早く農事に労働するの身 となり、ただ冬期のみ勉学するを得たり。十三歳の頃一冊の代数書を得たり。 しかも全村に之を教え得る者なし。乃ち独学して進む。時に一問題に三昼夜を 費やす。三四カ月にして終に学了したりといふ。
 七歳の時新約書を読了して父の称賛する所となる。同じ頃、一日母を欺きし ことあり。母罰せず、独り一室に導きて循々として諭す。又跪きて天父の許しを 請いぬ。博士後年人に語って曰く、我が偽りを語りしは、之を以て始めとなし 又終わりとなす。九歳にして母を失う。臨終の時、告げて曰く
善き児にてあれよと、母の感化が博士後年の生活に深き関係を着たせしや疑う べからず。

 ジェローム母を失いて孤独を感ずること甚だし。十三歳の時感慨愈々強く、 雨降る秋の一日、父不在の折、一人納屋にいて黍を碾しつつ、しみじみ人生の 不安を感じ、基督に従わでは生活の喜び望むべからざるを悟りしが、尚之を 不問に附せんとするの傾向あり。然も霊性益々覚醒し来て又如何ともする能は ず。遂に伏して罪を神に謝し、救いを基督に求めたり。父の帰宅を待ちて之を 告げし時父は涙を流して喜びたり。次の祈祷会の日、教会に行き立ちて衆人の 前に決心を告白し、遂に領洗して信徒の列に加わりたり。当時、小児の洗礼 する者稀にして、洗礼の日衆童奇異の感に打たれてジェロームの行動を打眺め たりといふ。

 十七歳の頃、大学の教育を受けんとの欲求盛んに起こり、労力と時間を家庭の 財政に用いて父を助けんか、将来有力の生活を全うせんが爲に他を捨てて其の 準備に掛かるべきかは、博士をして頗る煩悶せしめたり己にして試験に合格して 小学校教師となり聊か便利を得たり。
 一八五九年ビロイド大学に入る。元より苦学の身、毎朝四時に起き、割り木を 挽き、庭を掃除し、馬の世話をし教室を整理するなど種々の労働に服したり。 博士は兼ねて伝道の志を抱きしが、自らその資格無きを覚えて寧ろ躊躇して 進まざりき。大学生活に入るに及びて確信愈々明瞭となり再び疑いを抱くこと なかりき。

 一八六一年南北戦争起こる。夏期休暇中、大統領リンコルンの招致に応じて 義勇軍に入る。シャイローの激戦に連隊旗を持して一人退かず、弾丸雨の如く 降り、旗は蜂の巣の如く破る。一隊暫く退かんとするや憤然声を励して軍歌を 唱う。横臥する負傷兵又合唱す。遂に一隊皆之に和す。乃ち勇気百倍して能く 陣地を支ふるを、得たり。暫くして一弾博士の上脚部に突入す。出血激しく 地に倒れんとするに至って一兵卒来たりて連隊旗を支えたり。博士は泰然として 自ら?帯し以って成功に任せたり。
この事全体の成敗に関すること重く、蓋し博士の偉勲たるや言うを俟たず、 博士は一度戦死と認められしが助けられて病院に送られ、数ヶ月にして全快 するを得たり。
 この九月大学帰校の欲求忍び難きものあり氏が、愛国の情又禁ずる能はず 再び従軍す。南北戦争の終結を告ぐるまで四年に渡りて戦地にあり、博士は 軍人として理想的な資性を有し異数の昇進を遂げ中佐として凱旋せり。時に 歳二十七。

 一八六五年、再びビロイト大学に帰る。二十七歳の中佐は学生と共に勉学を 始めぬ。然もよく同窓と親しみ長上より愛せられたり。一八六六年神学校を 卒業し、内国伝道会社に乞うて最も人の好まざる伝道地を選び、西部ヨーミング 州チェニーに赴任す。同年七月ストロング嬢と結婚す。当時チェニーは新開の 地として、博士は木材を集めて手ずから会堂を建設し、添ふるに牧師館を以って せり。新婦は繊弱き身を以って之を助力したりという。

 一八七一年、故ありてチェニー教会を辞し日本に向かわんとす。博士は日本の 必要急なるを聞くや、同情禁じ難く、当時三千万の民衆を全く自家の同胞と 感じたり。其の心事真に敬慕に堪えざるものあり。出発に先んじてアメリカン ボード年会に列し、未だアンドバーの神学生たる新島襄氏に面会し、涙ながらの 感謝と依頼を受け、後年の友情はここに其の萌芽を発したり。博士は当時尚ほ 日本政府の外教に対する迫害を聞き、もし上陸を許されずばそれまでなりと 覚悟し、繊弱き夫人を伴って故国を辞したり。一八七一年(明治四年)十一月 来朝す。神戸に赴任す。

 博士が神戸伝道は四年間にして、基督のために燃える心は其の不完全なる 日本語を以って発表せられ、人々其の信仰と人格とに動かされたり。博士は当時 『近途』なる小冊子を著したり。博士惟らく、日本には口語体の文章行われ ざるは一般民衆の伝道に不利なれば、自ら進んで一文を試みざるべからずと、 乃ち博士は遂にローマ字にて怪しげなる言文一致の説教を認め、之を日本語の 教師に訂正を乞いたるに、何時しか立派な漢文と変じて一般人の読むべくも あらざれば、博士は更に之を国語の先生に託したり。然るにこの度は一層高尚 優美となり学者ならでは解し難き程となりたり。博士已むを得ず、邦語教師と 机を共にして一語一語を争いつつ遂に口語体の一書を出すを得たり。邦語教師は 其の時斯かる文章の自分に関係するを恥じて其の署名を憚りしといふ。口語体 文章の隆盛なる現代より顧みて実に隔世の感無くんばあらず。面してこの『近途』 なる一書は基督教の類書として最も早く世に行われしものなりといふ。この書の 公にせられしは明治六年の事なりき。

 明治八年同志社の設立せらるるや、直ぐに京都に移りて新島氏と協力す。同志社 の発端は新島、デビス両氏に因みて其の著に着きしや明なり。而してこの両者 交情の親密にして高潔なる真に慕わしきものあり。新島氏再度の洋行の時桑港より 博士に書を寄せて『我が心故国を思う時噴火の如く燃え来る』とありしを、新島氏 永眠の後、博士は屡ば引用して同志社の学生に語りしことありしが、博士がこの 一句に至るや声打ち震えて双眼涙の溢れざることはなかりき。

 博士は日本の学生を愛し其の一種特別なる知力に驚嘆したり。後輩宣教師の 日本人を卑しむが如き口吻ある時は常に博士の義憤に触れたり。博士は同志社を 愛して種々なる方面に力を致したり。彰栄館の高塔に上りてに登りて時計面を装へ、 大工を驚嘆せしめしは博士なりき。校庭の鉄柵を手ずから作り、羊羹色の洋服姿 にしてばけつの水を柄杓にて飲み、学生をあきれしめしも博士なりき。

 明治十九年四月、博士は夫人突然の死に遇へり。忠実にして愛情深く野にも山にも 夫と患苦を共にしたる夫人の死は博士の胸を傷めたること深酷なりしと雖も、博士は 一度帰米し、三人の子供をオベリンに残し、末女を抱きて一人帰任の途に登りぬ。 博士の語に曰く、『余は夕児らに別れを告げ、シカゴに向かって出発しぬ。余が 心は強く後に引かれて、大抵の馬力に手はこの列車進まざるべしと思いぬ』然し 博士がこの悲壮なる決心と実行とは、日本友人のインスピレーションとなりたり。 当時米国にありし同志社出身の一学生は博士に書を寄せて曰く『先生のこの決心は 、先生に因みて余が受けたる凡その教訓に勝りて余を励したり。先生が再び日本に 向かはるるの一事は、日本にある余が同級生に基督教生活とは何ぞやてふ問題に 新しき見解を与えたり』と。然り、当時この事を聞きし日本の友人、皆涙を流して 感激し新しく基督に忠勤を誓いたり。博士は後フーバー嬢と結婚したり。今のデビス 未亡人是なり。

 博士の教授課目は組織神学なりしが、当初は其の他の課も担任したり。神学の大原理 及新島襄伝最も著名なり。其の他小冊子には神学あり。道徳問題あり。註釈ありて 頗る豊富なり。
 博士は伝道に熱心し屡ば旅行したり。山間僻地を厭わず何処までも行きて教えたり。 粗食を省みず、不便を恐れず、戦地にある人の如く振舞い常に牧師と信徒を驚かせ たり。博士教壇に立つ時は風采に威厳と愛情とあり、言説以上の感化は其の精神に 因りて与えられたり。神と基督は博士に因って我に近きを覚えたり。
 博士は新島氏の死と排外思想の勃興と神学思想の動揺とに因って胸を傷めし事多大 なりしならんも、能く忍耐と寛容とを以って時に処し、常に希望を失はざりき。
 一八八二年、ビロイト大学の推薦に因り神学博士となり、一九〇〇年日本宣教師 大会の議長となる。一九一〇年ミッションの代表者としてエヂンボロー大会に列席 せり。

 博士は同志社を愛して其の傍らに死ぬ事を期待せられしが、一九一〇年十一月帰米中、 オベリンに於いて永眠せり。病の危篤なるや、日本に致すべき遺言は無きやと問われて 『我が生涯は我が遺言なり』と答へたり。実に然り、博士の生涯を通じて現れたる 信仰と勉励と無我と同情と熱心との人格は我らに対する有力なる遺言にあらずして 何ぞや。