明治初期神戸伝道と三田藩士

第四章 伝道の進展(べリーの医療事業)
       《全文掲載》

2005年11月9日

 本章では神戸公会の創立までにアメリカン・ボードの宣教師が行った伝道事業を、彼らのボード 宛書簡を中心にして簡単にまとめてみたい。単にD・C・グリーンの働きのみならず、各宣教師の 働きによっても多くの人々が教会に集い、神戸公会を創設する原動力となったからである。

1 べリーの医療事業

 J・C・べリーは一八四七年一月一六日アメリカ合衆国メイン州フィップスブルグ(Phipsburg)に 生まれた。四歳のとき父を失い、叔父の家に預けられた。母の針仕事による養育費の仕送りを受け る以外に、彼自身が働いて生活費にあてた。そのため小舟で危うく命を落としかけた経験もしてい る。その時に神の意志を感じ生涯を神に仕えようと決意したという。一八歳の時に受洗し、最初は 牧師になる決意であったが、説教することに向いていないことを知り、医者となって奉仕すること を決意した。ジェファソン医科大学を卒業しメイン州の病院でインターンの後、アメリカン・ボー ドの宣教医に応募した。最初派遣先はスペインの予定であったが、日本に変更された。日本出発に 際してマリア・E・ゴーブと結婚したが、他の多くの宣教師と同じく日本への旅がハネムーンであ った。

 彼らは一八七二(明治五)年五月二七日大阪港に到着した。グリーン、デビスの両宣教師の出迎 えをうけ、神戸に向かいデビス宅で旅装をといた。船酔いで体が弱っていたが、すぐに博覧会開催 中の京都にデビスと共に向かい、三六時間かけて同地に着き、ギューリックの歓迎を受けた。
 京都では先に述べたように地元医師主催の晩餐会が行われ、席上医師たちは外国の医学知識とア メリカの生活習慣をキリスト教のものと見なして学ぶため、ベリーが引き続き同地に滞在してくれ ることを望んだ(本書九八頁参照)。また京都府顧問の山本覚馬と会い、山本を通して京都府知事槇 村正直と会談する。知事は病人や貧しい人のための診療所をつくり、その医師にベリーを招こうと した。京都は外国人立入禁止地域せあるが、そのためには府がベリーの滞在願を政府に申請すると 述べた。しかしこれは府が他の外国人を招く予定の病院に対する、第二病院の計画であることを知 ったベリーは、その招きを断わる。ベリーはこれらの会合を通して啓蒙された人たちが外国の諸技 術、科学知識を知ろうとして、外国人との交際を求めていることを知った。
 神戸に戻ったベリーは、約一年前から開かれていた国際病院の医療主任(Medical Director of International Hospital)に就任する。その病院は外国人のために開かれているものであったが、べ リーは日本人も治療することと、そのために病院の施設を使うととを条件に就任した。彼は日本 人のための診療所で毎朝礼拝を守り、グリーンにも助けに来てもらった。

一八七二年一二月病院のオーナーであるA・S・フォーブズが新しい病院計画の提案を行った。 それは現在の病院を売ってより大きな病院を買い、運営はべリーの患者からの収入と年間一、〇〇 〇ドルの補助で行うという内容であった。ただ通年五名程度の外国人患者の受け入れが条件であっ た。この提案はアメリカン・ボードに対して行われたもので、べリーはグリーン、デビスのみなら ず大阪のギューリック、ゴルドンに対しても書面で相談した。その結果について言及がないが、ア メリカン・ボード会計のウースターかからのボードには財源とする基金(ファンド)がないという伝 言もあり、結局この提案にのらなかった。このためにべリーは国際病院を退いたようである。

一八七三(明治六)年四月ベリーは書簡で別の病院計画について伝える。彼はなんとかしてキリ スト教の感化力のある医療機関を作ることが重要と考えていた。そこへ外国人と県当局が一致して 医療センターだけでなく、医療教育も行う病院を作ることで合意した。しかし知事は外国人が病院 長となることを拒否したので、結局この提案も実現できないまま終った。
 今度は日本人医師一九人がべリーの計画を知り、基金を集め、建物、医療費、召使の費用等合計 月七五円で運営される診療所を作ってくれた。ここでは外国人の治療は英国人医師が当たった。こ の治療所の完成ほ一八七三年五月であり、恵済院と称した。ベリーは、日本人医師たちの貧しい人 人を救おうとする愛の心と、費用を自分たちでまかなおうとする自給の精神は大切で、これは医療 伝道の最も効果ある方法であろうと報告している。この病院でベリーは日本人患者への責任はとっ たが、場合によってほ診療を日本人医師にまかせて、医療巡回旅行に向かうことが可能となった。
 同年四月、ベリーは初の医療巡回旅行として有馬に赴いた。同地にはまだ切支丹禁制の高札がた ち、キリスト教への偏見も残っていた。その地に来てべリーは医療事業と聖書の配布によってキリ スト教への偏見を取り除く努力をしようと決意した。

 先に神戸に開いた恵済院には日々平均二六名から三〇名の患者が訪れ、入院患者は平均二八名で 半数が無料入院であった。そのため毎月寄金を集め、薬代と助手の給与を払わねばならなかった。 こうしたことからこの病院を県に移管する話が浮かびあがった。同年夏頃べリーは診療所の西春蔵 医師に対して、その件で神田孝平知事と交渉する条件を提示した。それは次の八項目であった。

 一、日本人の貧しい者で診療所に助けを求め、払えない者は無料で薬を受け取れる。
 二、日本人の貧しい者は慈善患者として、無料で入院できる。
 三、薬代の払える者には支払うことを要求する。
 四、西氏は少なくとも現在の給料で病院在住の医師の地位に留まる。助手もそうすることが望    ましい。
 五、診療所に日本人の医学生が参与し、実習し、見学できる。
 六、影山耕造氏所有の建物を修理する。その修理費、家賃二〇〇ドルは県が支払う。
 七、ベリー医師の神戸滞在に期限はないが、他の地域に移動する自由をもつ。
 八、ベリー医師の働きは貧しい者、悩める者への贈物(ギフト)であり、礼金は受け取らない。

 こうした条件のもとに設立されたのが兵庫県立神戸病院であり、西春蔵は院長、ベリーは一医師 の身分で日本人の診療に専心した。一八七七(明治一〇)年ベリーが休暇で本国に一時帰国する 際、兵庫県は神戸病院でのべリーの働きを讃えて次のような感謝状を送っている。

  貴下ノ人卜為リヤ温厚篤實二礼譲ヲ尚ヒ信義ヲ重シ学二精シク術ニ達シ済生ノ志念モ亦随テ  大ナリ?ニ明治六年本港二居ヲ占メ多聞通二於テ恵済院ヲ設ケ患者ヲ施療スルコト数月当時神  戸病院教師ノ設ケナク居常遺憾トナス爰ニ年アリ然ルニ幸ヒ貴下学術練達且ツ病院々長西春蔵   ナル者県令神田孝平二謀り貴下ヲシテ本院ヲ補翼シ学生ヲ教導シ博ク患者ヲ療セン事ヲ約ス而   シテ貴下俸給ヲ求メス謝物ヲ要セス患者診療二就テ反覆叮嚀ニ説示シ倦マス且医学ヲロ授スル   ナドノ事業大ニ本院ノ面目ヲ改メ日ヲ逐テ振起拡張の景況ニ趣キ将来ノ繁盛モ亦期ス可キナリ是   レ他ナシ全ク貴下ノ賜ナリ(略)

 べリーの貧しい日本人への医療と、日本人医師への医療技術の伝授は高い評価を受けた。
一八七三年八月ベリーは三田へ医療巡回旅行に出かける。この地は地元の医師たちが診療所を開 設し、神戸の医師が定住し毎日治療に当たっており、ベリーはそこを二カ月に一度訪問することに なった。八月一六日に三田に到着、五人の日本人医師の歓迎を受ける。一八日から二〇日まで、午 前中は診療、午後は近隣の患者を巡回し、コレラの患者を発見し治療につとめる。こうして三田の 医師の協力のもとで、三田のほとんどの患者を診療したという。またべリーの指導のもとに祈祷会 が開かれる。恐らく朝の診察前であろう。それには一九日一八人、二〇日には五四人が参加し、後 日は影山耕造が司会をしたという。また藤井瀬三郎によって聖書が売られた。これはデビスの指示 によると思われる。こうした医療と宣教の両方の成果をあげた第一回の三田旅行が終わった。
一八七三年一〇月三田での診療所は移転し建て替えられ、二〇〇名の集会室をもつ建物となっ た。デビスの日曜日の集会はこの建物に移された。この病院には無料入院患者が六名収容される が、その費用は地元の医師によって負担された。

 一八七三年八月二六日ベリーは先に助手を送っていた明石に向かう。同地にはキリスト教排斥の 雰囲気が強く、最初人々はベリーの滞在を望まなかったので二六、二七日の両日、患者を診察して 帰神した。一○月初め彼は再び明石を訪れる。しかし三田のような診療所がないので、彼は失望し ている。一一月一七日にも明石に赴き、木村強医師他四人の医師と慈善病院について話し合う。一 八日に医師たちに新約聖書を贈り、二四人の患者を診察して帰神した。一二月一六日にも明石を訪 問するが今回は温かい歓迎をうける。一七日には聖書のたとえ話をしたという。同夜、松浦、尾賀、 松井の各氏と共に加古川に行き、一八人の医師、商人の歓迎をうける。彼らと三つか四つの慈善病 院を同地方につくる件で話し合いをした。一八日、患者を診察後、慈善病院に関する話し合いを続 け、明石、加古川、姫路にそれぞれ地元の人たちの負担による病院をつくる計画がまとまった。
一八七四年二月一六日新任のアメリカン・ボードの宣教医ウォレス・テイラー(Wallace Taylor, 1835.6.18-1923.2.9)を伴って明石、加古川、姫路を訪れる。テイラーはオハイオ州出身でオベリ ン大学、同神学校、ミシガン大学医学部出身の牧師であり、医師であった。一八六九年メリー・ウ イズナー(Mary Felicia Wisner,1842.4.12-1925.7.17)と結婚している。彼は大阪、京都で一九一 二年まで活躍した。さて、姫路は外国人立入地域外のため彼らは加古川から日帰り出張をした。先 の三つの慈善病院のため合計二、五〇〇ドルが集められた。飾磨県(当時)は病院設立の許可を与 えるのみならず、五〇〇人から一人一ドルから一〇ドルの寄附を集めるという協力をしてくれたと ベリーは伝えている。
一八七四年(明治七)四月一日姫路で病院開所式が行われ七〇人が集まり挨拶と会食があった。
ベリーは加古川から同地へ約一週間通い患者を診察し、病院規則を定め、日曜日には聖書研究(聖 書通読)を催したりしている。滞在の後半はテイラーも加わり、ベリー帰神後も診察に当たってい る。
 この姫路での病院開所式に関するティラー書簡は次のように伝えている。

姫路、加古川、明石の慈善病院の開業に臨むために三月三一日から一〇日間旅に出た。中央 政府からの許可がおりず、姫路には加古川から日帰りした。姫路の病院は元の仏教寺院で良い 建物である。二〇〇名の患者を診た。聖書通読には一二名から一五名が集まる。病院のための 結社には二四名が集まったが、聖書通読が必要と知ると一一名が抜けた。結局三名が病院の 維持と聖書通読を続けた。

 姫路に地元有志に支えられた病院が開かれ、そこが同地方の医療と宣教の中心となっていく。た とえばベリーからキリスト教を学んだひとりに地元で私塾簪盍学舎を開いていた田島藍水がいる。 田島が同学舎の講義を通してキリスト教を伝えたため、辻密太郎、野口幽香といった牧師や教育者 が後日生まれてくる。また田島は、ぜん、たか、の娘ふたりを神戸ホーム (神戸女学院の前身。本書 一五三ぺ−ジ以下参照)に送るが、やがて彼らは大阪のキリスト教会に大きな影響を与えた小泉敦、 沢山保羅と結婚していく。

一八七四年四月八日べリーはグリーン夫妻と共に明石に向かい、加古川からテイラーも来て明石 での病院開所式に臨んだ。九日は同所での聖書研究を指導して帰神した。この病院は材木町宝林寺 にあったと伝えられる。
 兵庫県下でのべリーらの医療事業は紳戸にとどまらず、三田、明石、加古川、姫路等で行われ た。これらに要する医療費は月六〇〇ドルで、その費用はすべて日本人有志の寄附によった。この 費用の中には神戸病院の西医師への月給七五円と、姫路の松井氏の理事としての給与月一〇〇円を 含んでいた。

 一八七四年五月、べリーは政府から姫路に月一〇日行く許可が与えられた。しかも許可にはキリ スト教に関する言及がなく、また政府が従来の一・六休日制に代えて日曜休日制度をとり始めたこ となどから、べリーはキリスト教伝道の自由を与えられたものと考えた。彼も飾磨県での医療事 業、聖書研究は共にすばらしいものであると伝えている。
 こうしたべリーの医療事業の成功について新任のJ・L・アトキンソンは、次のように讃えてい る。

宣教医は宜教師の立ち入れない町にも入ることができる。現在、政府のお雇い外国人がキリ スト教嫌いを表明すると影響が大きいが、それに相対するには、宣教医の良き働きを欠かすこ とはできない。べリーこそまさにバプテスマのヨハネである。

 このように明治初期兵庫県の医療と伝道を考える際に、べリーの果たした役割は大きい。
 べリーは医療と伝道に尽すのみならず、日本の監獄改良に大きな足跡を残した人物でもある。そ のきっかけは神戸病院の助手が受刑者の脚気治療に当たったことからだった。一八七三年秋、べリ ーは神戸監獄を訪れる。小さな各房には囚人が刑期、犯罪、老若の区別なく入れられ、下水がなく 臭気がひどかった。囚人は二枚のむしろを上下にして寝ていた。刑務所は囚人に苦痛を与える場所 である、という古い考えが支配していた。帰ってすぐにベリーは神田孝平知事に手紙を書き、刑務 所の改善を進言し、また各地の刑務所の視察の便宜を取り計ってくれるように頼んだ。神田はその 為にできるだけのことをすると約束してくれる。

 同年一一月二〇日ベリーは神田孝平知事の紹介状をもって、大阪府知事渡辺昇を訪ねる。翌日府 庁でべリーと面会した渡辺は、べリーの刑務所視察の趣旨を諒解し、近くの大阪監獄に案内させ る。ベリーらは同所を見学し、一〇〇名の入所者のうち病人六名を診察する。囚人は一室約八人お り、働くことや戸外での運動は禁止されているが、だいたい良い状態であった。ところがこれは未 決囚の獄舎であり、一般囚人とは違うことが分かった。そこで一般囚人舎への立ち入りを求めたがか なえられなかった。べリーは一八七四年五月一二日に日本各地の刑務所見学の許可願を提出してい る。そして飾磨、大阪、兵庫、京都の四監獄を視察し「獄舎報告書」を提出して、獄舎囚人の待遇 の改養を求めたのは一八七六(明治九)年のことである。
 またベリーは医学進歩のための死体解剖を願い出ている。彼は一八七二年一〇月二四日に囚人の 死体の解剖を兵庫県知事神田孝平に願い出る。神田はそれを副島種臣外務卿に具申し、外務省は文 部省に照会のうえ回答を出した。それは解剖の際には邦人医師が立ち合うこと、解剖後は厚く埋葬 すべきことを条件とした許可であった。

 べリーはこの時期生まれたばかりの長子を失くした。一八七四年一月のことであった。また同じ 頃来日直後のアトキンソンの長子が意識不明となり、ベリーが専心看病したが不帰の人となった。 ずい膜炎であった。またゴルドンが眼を悪くして、一時はグリーンの急報でベリーが加古川から引 き返すこともあった。ゴルドンは医師でもあったが、これを契機に医師の仕事をするのをミッショ ンが許可しなかった。
 ベリーは内に悲しみを抱えながら、日本人とミッションの同瞭との健康と伝道のため全力を尽し つづけた。