明治初期神戸伝道と三田藩士

伝道の開始(英語学校《全文掲載》)

2005年10月1日

 貴下の最初の仕事は、読むこと話すことを通じて、完全に言葉を修得することです。もしも そのために、若者達のクラスに英語でバイブルを教え、あるいは、他の学科を教えることが便 利であり、人々に興味を起させる手段であるならば、貴下が言語を修得され、人々に接近され る便宜上、貴下が直接キリスト教的仕事をなされる準備が出来次第それを停止するという条件 で、それには何ら異議はありません。当分の間、そのようなクラスが貴下の最良の聴衆となる でしょう(川村大膳訳)

 右に引用した文章は、日本伝道開始を決めたアメリカソ・ボードのピッツバーグ総会でのグリー ンに対する任命書の一部である。言語未熟で直接伝道ができない場合に限って、人々と交わる一つ の手段として、聖書又は他教科を教える英語のクラスを開いてよろしい。しかし、直接伝道が可態 となれば、クラスはやめなさい。これがアメリカン・ボードの基本姿勢であった。もっとも宣教師 の障害になったものは言語の未熟よりも、切支丹禁制令であったが。
 グリーンら宣教師たちは、従来それぞれ自宅で英語を教えていたが、そうした教育を通して人々 と親しくなることが、伝道への有力手段になることを知り、英語学校を開くことを決意した。一八 七二年一一月にはユニオン・チャ−チの会堂完成と同教会の設立によって、外国人への牧会が新た な段階に入ったことも、日本人教育に向かう一つの契機になったと考えられる。しかしこの英語学 校の開設は、直接には日本人青年からの要望によるものであった。当時神戸には一八六八年(慶応 四年)に開校した明親館と神戸洋学伝習所があり、両者が一八七二年秋に合併して明親館として、 和、漢、洋学を教えていた。しかし、合併直後学制発布の影響で廃校となった。それが宣教師たち のもとで英語や洋学を学ぼうとする者を増やした一因であろう。グリーンは手紙に次のようにい う。

  何人かの日本人の友人は、私たちに一日数時間の学校を開いて欲しいと望んでおり、私たち もそれが非常に有益であると考え始めて、目下適当な建物を探しております。多分それにはボ −ドに費用を払ってもらわずにすむでしょう。つまり建物の使用料と同額の費用を学生からと ることを考えているからです。

 こうして一八七二年二月初め、一軒の家を借りて学校が始められた。開始された日について は、「謀者報告」では二月朔日即ち陽暦十二月一日、松山高吉の「旅日記」では十一月三日即ち 十二月三日という異なる証言がある。場所は宇治野村で、そこはグリーンの居所中宮村より一 つ海岸よりの村であった。デビスは後年、この学校の位置は現在の神戸教会(神戸市中央区花隈町 九番一六号)の近くにあたると述べている。開校を伝えるグリーンの手紙を見てみょう。

 少し前に私は学校開設の意向について書きましたが、それは今までの私たちの知り合いの輪 に属する者よりも、多くの人数を集めるためなのです。学校はその目的のために借りられた建 物で、二週間前からその授業をしています。これは伝道団の仕事ではありません。つまりそれ 〔伝道団〕自体は何ら責任を負うものではなく、デビス氏と私自身の私的なものなのです。デ ビス氏は必要経費を前払いしましたが、予想では費やした費用の大部分は戻ってくるでしょ う。それは寄宿舎学校ですが、教えることと一般的監督は別として、すべての面倒を幹事会 (Committee)によって構成された自治組織に委せており、彼らは非常に良くやっているよう に思います。寄宿生と通学生の数は約四〇人です。

 この手紙は開校事情を伝えているが、それによればボードに経費の面倒をかけないこと、日本人 幹事によって自治的に運営されている様子が報告されている。費用を支払うという自給のみなら ず、学校の運営をも生徒の自治に委せているのは注目される。この自治、自給の学校運営の方式は グリーンによって強調されたと考えられる。大阪でギューリック、ゴルドンによって開かれる同種 の学校が無料であったということからも、グリーンの自給に対する意識はぬきんでていたといえる。  さてこの学校に関する日本側記録の一つである松山高吉(当時は関貫三)の「旅日記」では開校 事情を次のように述べる。

 〔明治五年〕十一月三日米国デビス氏ヲ聘シテ英学教授所ヲ神戸宇治野町二開ク結社人員八名  岡田実(加州大聖寺)、阿部昇三(長崎)堀希一(作州落合)、須川二郎(作州津山)、倉谷藤平(大聖寺)、 前田泰一(摂州三田)、耕三兄及ビ高吉(当時仮に関貫三と言う)結社金三円ヅツヲ出ス

 松山の記録では幹事が八名であったことと、幹事がひとり三円ずつを出資し合ったことが述べら れている。幹事名中の耕三兄とは松山高吉の実兄の影山耕造のことである。一方、切支丹禁制令下 のキリスト教の働きをスパイする諜者のひとり伊沢道一は明治五年一一月一二日(一八七二年一二 月一二日)到来の「諜者報告」で、グリーンのあっせんにより、デビスが中心となって学校が開か れたこと、幹事が関貫三、影山耕造、早川正人の三人であると述べている。早川は「江州人グリン ニ随従ス」とあり、グリーンの召使であった様子が伺える。幹事名に関しては当事者の松山の記録 の方が、より正確であると考えられる。「諜者報告」は幹事の中心人物で、この学校の提案者が影 山耕造であるとして、開学の事情を次のように伝えている。

 影山グリンニ語テ曰コノゴロ奮藩士開港地二飄泊スル者甚多各語学ヲ志ユヘ今度学校ヲ開語 学教授セバ入門生必多カルベシ月金ハ飯料共ニ二両二歩卜定メ実貧生ニシテ篤志ノ者ヘハ教師 ヨリ衣食ヲ給シ学バセナバ其者成業シテ官員ニナリ又ハ商客ニナル則ハ当人ハ勿論親族マテ教 師ノ恩義ハ忘マセヌ比ガ教ヲ施ノ上策卜思マス

 影山はグリーソに対して、多くの元の侍が語学の修得を目的として神戸に集まって来ているか ら、彼らを対象に語学教授をすれば、必ず多くの者が集まると提案する。授業料は食費ともで月、 二両二歩、即ち二円二〇銭としたいが、貧しいものには教師より衣食を支給して学ばせると、後日 官吏なり商売についたとき、本人は勿論、家族も教師の恩義を忘れないだろう、と提案したと伝え る。こうした日本人側の英語を学びたいという意向と、宣教師側の人々と交わりキリスト教を伝え るきっかけにしたい、という二つの意向が合わさって、この学校が開校されたのである。

 グリーンはこの学校で毎日午後英語聖書を用いて旧約聖書を教えた。

 私たちは〔学校に〕毎日午後、一時間半を割いています。私の主な仕事は一時間にわたる旧約 の勉強です。(略)八人から一〇人が読み、それ以上の多数が坐って聞いております。全員が 勉強に非常に興味を示しており、彼等の質問に答えるのにかなり忙しい思いをさせられます。

 グリーンの旧約聖書のクラスが終ってからデビスが教えた。デビスは教えた科目を英語、歴史、 地理、算術と伝えており本格的な洋学校のカリキュラムであったことが分かる。グリーンは日曜 日にもこの学校でバイブル・クラスを開いたところ、熱心な学生一二名が参加している様子を次の ように伝える。

 日曜日に私は学校の建物で約一二人のバイブル・クラスを開いています。昨日私たちはマタ イ伝一九章の後半を読みましたが、それは約一時間半の話し合いの話題を提供してくれました。 彼ら以上に注意深く、鑑賞力のある聴衆を他には求めることができないでしょう。

 この手紙では、過去二年間自宅で小グループによるバイブル・クラスを開いてきたが、この学校 の生徒以上に良い生徒はいない、とくり返し生徒の熱心さを賞賛している。グリーンはさらにこの 仕事が将来良い成果を生むだろうと予測するが、この学校のバイブル・クラスこそ神戸教会創立へ の源流となっていくのである。グリーンはこの学校の成功の一因がキリスト教に好意をもつ知事に あると報告し、宣教師にこの学校を運営する自由を与え、また家族二名を生徒として学校に送って くれる神田孝平を讃えている。
 この学校の生徒の中に見られる宗教的情熱の高まりはその後の伊沢道一の「諜者報告」(一八六三 年一月)の中でも影山耕造の談話として報告されている。

 第一月七日影山耕三曰ク「近頃学校ヲ組立ルニ付テ社ヲ結マシタ凡十人斗出来マシタコノ人々 初ハ只開化ノ御手伝トノミ心得マシタガ近日ハ各バイブル信向イタシ中々私ナドノ及コトデハ ナヒ教法ノ徳化実二感心イタシママス

 「諜者報告」によると、学絞の幹事が約一〇人で、松山の「旅日記」の人員の正しさが裏付られ る。最初は英語を中心に洋学教授の学校として文明開化を手伝うつもりであったが、最近は生徒の 関心が聖書に向けられ、それが信じられるようになっていると述べ、それについていけない影山耕 三の心境が表明されている。
一八七三年二月グリーンはこの学校で開かれている新約聖書のクラスのことを次のように述べて いる。

 今日私の教室で、怪しげな言葉ではありますが、約二〇名の青年に説教をする恩恵に浴しま した。それは説教というよりはむしろ聖書研究で、一時間余りでヨハネ福音書の最初の一三節 を読みました。私はこれ以上に興味をもってくれる聴衆を求めようとは思いません。(略)私 たちが英語聖書を用いているのは事実です。しかしすべての会話は日本語でされており、宗教 的訓練の際に外国語が少しも妨げとはなりませんでした。ほとんどの生徒が英語のために来て いますが、すべてがそうであるとは限りません。少なくとも三名の者は真剣に〔キリスト教に ついて〕考えており、まもなく受洗してくれるかも知れないという希望をもっています。

 この手紙でいう「今日」が、発信日の二月一七日であれば、それは月曜であるから、グリーンは 先の旧約のクラスに代えて新約のバイブル・クラスを学校で行っているということになる。そして 学生が熱心に聞いて、初めて三名の求道者が現れた様子を伝えている。怪しい日本語だといいな がら、ディスカツションを全部日本語で行っていることからすると、グリーンの日本語はかなり上 達している様子である。この時期、先の在日プロテスタント宣教師会議の指名により、彼は聖書翻 訳委員として、自宅でコリント人への手紙の日本語訳にとりかかっており、日本語の習得もすすん でいたのであろう。
 この学校は熱心な生徒を集めたが、他にもまだ入学希望の生徒がいるのでより大きな家に移転す る話が持ち上る。先の「謀者報告」はいう。

 同日学校生徒六十人ニ及ヒ今ノ家デハ狭ナリマシタユヘ新ニ家ヲ借請ルツモリデアル

 一方、一八七三年二月三日グリーン宅で開催されたアメリカン・ボードの宣教師総会では、自給 独立の学校からミッション・スクールへの切換えが決議される。
 ミッションはデビス、グリーンによって宇治野村で始められたもの〔学校〕を、ミッション・ スクールとして引き受け、建物の家賃は臨時費から支出する。
 この決議によると、この学校は一八七三年二月からはミッション・スクールとなり、運営費、家 賃はミッションの負担となり、幹事による結社は解散したようである。移転の日や場所は明らかで はないが、同年二月の宣教師臨時総会では「従来、神戸、宇治野村で学絞の建物として借りられた 家は、今月末で手放す」という決議があるので、六月にはすでに新しい建物に入っていた可能性が 強い。

一八七三年三月三一日エリザ・タルカット(Eliza Talcott,1836.5.22-1911.11.1)、ジュリア・ダ ッドレー(Julia E. Dudley,1840.12.5-1906.7.12)の二人の女性宣教師が神戸に到着した。タルカ ットはデビス宅に落ち着き、同時にデビスの依頼によって早速この学校で英語を教える。タルカッ トはこの学校での最初の授業を回顧して、概略次のようにいう。

 彼女はデビスから学絞で英語のクラスをもつようにいわれて大変喜んだ。最初の時間、学校に行 ってみると、二つの部屋の間のふすまがはずされており、次のクラスを待つ生徒が向う側に、彼女 のクラスの生徒が手前にいた。両方の生徒の好奇の目の中、彼女が入っていった。生徒に英語を読 ませていると、隣で待っている生徒の騒音がやかましく、生徒の発音が聞こえない程だった。とこ ろが制止の方法がなく、その日はそのまま終った。次の日、彼女は「もっと静かにして下さい」と いう日本語を覚えて、隣の生徒が騒がしくなったときそういうと、静かになった。しかし、しばら くするとまたやかましくなる。すると今度は彼女のクラスの生徒が「やかましい」とどなると、み んながびっくりして静かになった。それ以来、隣の生徒が騒がしくなる毎に、先生の困った様子を 見て、誰かが「やかましい」とどなってくれた。それは彼女には心強いことだった。

 こうして学校は建物、スタッフ、運営面、生徒数でも拡充されたように思えるが、事情が一変し 廃校にむかう。それは一八七三年二月の切支丹禁制令の高札撤去によって、直接伝道が可能となっ たからである。廃絞は最初に掲げたボード側の当初からの計画でもあった。何よりもグリーン、デ ビスを初めとする宣教師にはキリスト教伝道と、伝道者養成のコースヘの興味はあっても、英語教 育とか一般教育への関心は薄かった。日本政府の学制の発布で、序々に一般教育が進み始めるとい う認識もあったようである。一八七三年一〇月、グリーンは次のようにいう。

 あまりにも英語の勉強を顕著にしすぎているので、現在の形のままでこの学校を続けるのは 最善ではないでしょう。たぶん公立学校が間もなく初等教育に関するいかなる配慮からも、私 たちを完全に解放してくれるような状態になるでしょう。そういうことになれば、私たちはも っと完全な形で説教に専念できるようになります。

 宣教師たちは神学校を作る計画をたてる。先に引用した「諜者報告」にも「第五月ヲ期シテ別ニ バイブル塾ヲ開ノ目的ナリ」とある。グリーンは一八七四年一月、次のような手紙を送る。

 われわれは昼間の学校をあきらめざるをえませんでした。しかしデビス氏は、彼が集められ るだけの人を集めて、聖書研究に毎日二時間を費やすことを意図しておられます。(略)われ われはそれが神学校の核になることを望んでおります。

 グリーンのその前の手続は一一月一四日であるので、その日から一月までの間にこの学校は廃校 された。一方一八七三年一一月一五日付デビス書簡では、「タルカット、ダッドレーはちょうど昼 間の学校を開いたところです」と報告している。したがって、この学校は二月頃一たん廃校され た後、タルカット、ダッドレーによって新しい場所で、新しい視野からの教育が行われていったと 考えて良いだろう。デビスは回顧録でこの最初の学校が神戸女学院、そして同志社の原点であると 述べる。まさに宣教師にとってこの英語学校はキリスト教伝道への手がかりとなっただけでなく、 日本における一般教育の重要性を認識させ、神戸英和女学校、同志社英学校といった新しい段階へ 進む基礎的な出発点となった。したがってこの学絞は廃校によってその使命は終ったが、宣教師た ちがここでえたものは次の段階で充分に生かされたといえよう。そして何よりも、求道者がこの学 校から出たことは、キリスト教伝道にとって貴重なことであり、それ故、次の福音伝道の手段であ る書店経営と、日曜学校の開設へと進む礎石となったのである。
この学校の正式な名前は不明である。兵庫県資料にあるといわれる「宇治野村英語学校」(設立 明治六年二月十五日、教員男二名、生徒男六一名、主者加藤譲)というのが同校と考えるのは無理 があろう。