『天上の友』より

ダニエル・クロスビー・グリーン

2006年6月18日

 グリーン博士は一八四三年、北米マサチュセット州ロックスベリーに生まる。 父君亦教職の人にして、アメリカンボードの主事たること二十年、母堂亦 ボード主事たりし人の娘にして、博士は幼少の時、既に外国伝道に趣味を有し たりという。ウインゾー中学を卒へ、ミッドベリ大学に入り、転じてダルトマス 大学などに行く。一八六四年、ダルトマス大学を卒業し教育に従事すること二年、 一八六六年シカゴ神学校に入る。デビス、アッキンソン両博士と同級生なり。 一八六七年、アンドーヴァ神学校に転じ一八六九年卒業、同年七月ホルブス嬢と 結婚す。十月アメリカンボードの年会あり、日本伝道の開始を議決す。博士夫妻 選抜せられて日本に向かう。一八六九年(明治二年)十一月三十日横浜に着す。 盖し組合教会最初の宣教師なり。東京築地に住す。日曜の礼拝を其の家庭に執行す。 是れ東京に於ける日曜礼拝の嚆矢なるべし。

 一八七〇年三月神戸に移る。当時横浜にはヘボン、ブルベッキ、ブラオンの 諸宣教師ありしを以って、伝道未開の地に根拠を置きしは当然なりというべし。 博士当年回顧の言に曰く。『神戸は其の時伝道未開なりしと共に、地理上大阪、 京都の大都会に近く、内海に沿いては市外甚だ多く、伝道の中心として将に好適地 なり。而してこの選択は後年の発展に徴して其誤らざるを知る』と博士が経論の 人たる所以この時早くも発揮せられたりし也。

 博士の来朝は明治二年にして、封建制度は既に廃止せらりしと雖も諸大名は 猶旧来の生活を継続し、其の行列には民衆路傍に額づき、武士の廃刀未だ行われず、 政府は公然基督教を敵視し幾千の天主教徒は監禁の迫害に苦しみつつあり、時勢 既に斯くの如し。博士が宣教開始に際して感慨果たして如何にありしか、盖し 察するに余りあり。されば公会演説などは思いもよらず、博士の家庭に住し僕婢 すらも聖書の研究を敢えてするものなかりしという。

 この時に当り市川栄之助なる人あり。博士の日本語の教師たりしが、博士の人格 にや感じけん。聖書研究の志を起し漢訳の聖書を繙くに至りしが、この事忽ち官憲の 探る所となり、捕らわれて京都二条の監獄に投ぜられたり。グリーン博士之を大いに 憂い、博士に遅れること二年にして来朝せるオー・エッチ・ギュリッキ氏と謀り、 官に交渉して其の救済に尽くせしが果たさず、市川氏遂に獄中にて永眠せしが、 而もこの事日米の外交に関連して岩倉公の米国に渡るや、時の国務卿フィシュ氏と 会して条約改正の意見を交換するに当り、日本に於ける宗教迫害の事実を摘発せられ 其の答弁に苦しみしが、爾後一年余りにして基督教禁止の厳令、実施以来二百五十年 にして撤回せられたり。察するに基督教禁止の廃されしは市川氏の監禁に密接なる 関係のありしなるべく、而してこの間博士の尽力與って力ありし消息亦窺うに難し からず。果たして然らば我が国政教の大問題に関してグリーン博士の貢献洵に偉大 なりというべし。

 伝道公布の困難は如上の状態なりしと雖も、信仰間接の感化は当初より有力に 行われたり。当時武士にして泰西の学に志すもの多く神戸に集まる。博士に就いて 英語を学ぶ者亦少なからず。後年近世の保羅とまで称せられし澤山牧師の如きも 元と博士門下の一人にてありき。英語の教授についでやがて聖書の教授もせられたり。 外教禁令の廃止と共に伝道は公然開始せられ、神戸元町に説教所を設け大いに注目を 引きたり。一八七四年十一人の信徒に因りて神戸教会創立せられ、博士は実に当初の 牧師たりしなり。

 一八七四年新約聖書翻訳委員となりて横浜に移る。ヘボン、ブラオン、ブルベッキ の諸宣教師、及び松山高吉、奥野昌綱諸氏と協力して其の任に当たる。一八八〇年 現行の新約聖書成る。この間博士が熱心努力以って其の完成を致されたる功績は長く 我が教会において記念せらるべきものなり。新旧両約書を通じて多大の貢献をなしたる 松山高吉氏は博士の教導に因りて基督者となりしといふ。一八八〇年一度帰米、翌年 帰朝。推されて同志社の教授に任ず。博士は別課新学校に教鞭を執る。加ふるに 同志社の経営に参与し、構内彰栄館、礼拝堂、図書館の如き皆博士の設計と監督の 許に建築されたるものなり。博士が同志社在職中其の沈着にして高雅なる品格は学生の 敬慕する所となる。一八八七年帰米の時学生が催したる送別会に際し、一人吟じて曰く 『いかばかり君に別れを惜しむらん大和島根の有明の月』この一首当時同志社学生間に 流行歌となる。

 博士は帰途独逸に止まり後に米国に行く。この頃婦人病あり。帰休久しく一八九〇年 暫く帰朝し東京に赴任す。伝道に従事し又社会公共のために尽力せり。日本宣教師団 同盟に尽くし、其の機関誌『日本に於ける基督教の運動』は幾年か博士主管の下に刊行 せられたり。博士は其の総論に於いて日本の社会、政治、文化、思想が如何に基督教に 関係しつつあるかを論じて、我国を最も正統に世界に紹介し、大いに欧米思想界の注意を 引けり。博士は久しく亜細亜協会の会頭たり。屡研究の結果なる長論文を草して同会 会員の為に朗読せり。彼は多年同志社の理事として経営の労を執り貢献する所多く、 又米人平和協会会長として日米外交問題解決に尽力せり。其の他ミッションニウス誌を 刊行し、福音叢誌を刊行し、帰一協会の創立員となり、其の労作と功績は枚挙に暇あらず。 要するに博士東京在住十有三年は、直接伝道以外後輩宣教師の指導、日本伝道の経営、 世界に於ける日本の位置増進のために費やされたり。若しそれ日米問題に至っては、 先に学童問題あり後に排日問題あり。博士は私信に論文に用意周到なる意見を発表して 日米親善に尽力せる事実に容易ならざりき。博士は素名族の出にして伯父エバート氏の 如きは米国国務卿たりし人なり。故に博士も亦政治の識見に富めるは其の特徴なりき。 東京在任中は親しく政府要路の人と交際し信頼と尊敬を受けたり。博士が日米親善に 就いて貢献浅からざりしは察すべきなり。

 グリーン博士は教養多趣にして、神学の如きも保守に偏せず進歩に軽率ならず、常に 穏健の思想を持し、其の人格亦沈着にして強固なる意志も熱烈なる感情も冷静なる知力 の平衡を失うことなく、君子人たるの品位美しく発揮せられたり。風采亦高雅にして 且つ威風あり。能く上下の信頼と尊敬を博し真に指導者たるの天禀を有したり。若しそれ 博士の家庭生活に至っては知人の賞賛して惜かざる所、清くして温かき空気の常に漲る を覚えたり。夫人は賢明なる淑女にして妻として母として完美したる性格と修養とを 有したり。僕婢よく服し子女八人皆孝順、真に楽園の感あり。子女は悉く天晴れなる 紳士淑女となり、男児五人各要職にあり。

 博士はロッヂャース大学よりD.D.の学位を受け、ダルトマス大学よりL.L.D. の学位を領したり。一九一〇年日本国家に功労ありし所以を以って勲三等に叙せらる。  一九一〇年春、夫人永眠す。一九一三年秋、博士病を得て相州葉山に療養す。九月 十五日遂に永眠せり。東京青山に葬る。日本宣教の職にあること実に四十有五年也。 左に博士が論文の一節を訳出し其の精神人格を偲ばん。

 基督教諸団体の発展の程度は果たして那辺まで進みゆくべきか。察すること或いは 難しからん。然も将来基督教の精神が日本を指導するに至るべきは疑わんとして疑う 能はず。今や教会以外の人士にして人格の神を信ずる者少なからず、余は天父自らの 大業が其の成果として現じ来たりし之等の人士と猶将来起こり来るべき更に多数の者 とは、遠からずして其の神を耶蘇基督の聖貌に認め、彼の懐疑的なるトマスと共に 我主よ、我が神と叫ぶに至らんことを信ずるなり。