| 明治初期神戸伝道と三田藩士 |
彦棍伝道
|
2006年1月1日 |
|
アメリカン・ボードは今まで見てきたように神戸、大阪をステーションとし、神戸からの伝道地
として、三田、明石、加古川で医療事業とともに伝道に当たっていった。しかし外国人の立ち入り
が許されないため、その他の地域に宣教師が伝道に向かうことはなかった。しかし一八七二年京都
で開かれた第一回京都博覧会は、一時的にせよ京滋地区への外国人の立ち入りという新しい局面を
開いた。 翌一八七三年再び京都で内国博覧会が開かれたのを機に、グリーン夫妻、デビス夫妻、0・H・ ギューリック夫妻、ジョン・ギューリック夫妻(この当時は中国派遣宣教師)、ゴルドン夫妻が京都と 近江の回遊を試みた。まずグリーン夫妻が他の一行より先に彦根に入った。グリーンはまず同地が 神戸に較べ知的な人々が多いと述べ、理由として以前侍であった人たちが約一万人いることをあげ ている。グリーンはこのとき「バラの昔の生徒」の夫人の訪問を受けた。夫人は宣教師に会うのを 非常に喜び、宣教師が彦根に長期間滞在することを切望した。また彼女の義兄弟はもし宣教師が彦 根で学校を開設しようとするならば、無料で建物を提供し政府から外国人の滞在許可をとることも 保証すると語った。この婦人たちは後日ギューリックらの一行にも会ったようで、ギューリックは 彦根では英語学校があったが貧弱な内容なので、宣教師がやっている神戸や大阪の学校のようにする ために、宣教師が教師として来て欲しいと望んでいると伝えている。 この「バラの昔の生徒」とは鈴木貫一のことであり、宣教師と面会したのはその妻と、弟鈴沐省 三のようである。鈴木貫一は天保一四(一八四三)年二月一二日(陽暦三月一二日)彦根に生まれ、 一八六六(慶応二)年アメリカに留学し、帰国して一八六八年五月粟津高明と共にバラから受洗し た人物である。彼が在米中にバラに宛てたと思われる書簡が杉井六郎教授によって明らかにされて いる。しかし留学の経過については不明である。また横浜の「日本基督公会」へ、同公会設立直後 の一八七二年四月二八日に転入したことは小沢三郎氏によって解明されている。再渡来し帰国後、 一八七〇年集議院設置により議員となる。一八七一年、彦根の自宅を校舎として、彦根藩立洋学校 を開校した。しかし間もなく政府高官のフランス視察にあたって随行を命じられたため、洋学校を 鈴木省三に委ねて出発した。「彦根市史稿」は鈴木省三は貫一の息子としているが、宣教師は貫一 夫人とsister-in-lawが会いに来たとしているから弟と考えられる。いずれにせょグリーンが彦根 を訪れたのはこの時期である。鈴木はその後もフランスで公使館二等書記官、臨時代理公使まで務 めたが公金横領の罪が発覚し、フランスを逃亡、ベルギーで自首し、日本で刑期をつとめた。横浜 海岸教会は彼を除籍して教会を追放したが、その後復籍していることが井上平三郎氏の資料調査に より明らかになった。その後の動静は不明であるが、晩年を京都の田中村で過ごし、一九一四(大 正三)年六月二九日死去しており、彦根や他地方のキリスト教会とは直接には結びつかなかったよ うである。
帰途大津への船で、グリーンと鈴木清はデビスのトラクト『真の道を知るの近路』を配布する と、乗客からもっとくわしい話をするように求められた。そこで鈴木は乗客を二つのグループに分 けて話したが、全員熱心に話を聞き、ある人々は涙を流したとグリーンは報告している。またグリ ーンは霊魂の不滅に関する質問に答えている。下船の際は全員が二人にていねいな感謝の挨拶を送 った。また往路、復路ともに橋本(大津近辺)でも集会をもった。 グリーンは彦根での成果に、自分は聖書翻訳のため横浜転任が決まっているが、むしろ彦根に赴 任して、英語教育と福音伝道に当たりたいぐらいであると述べている。また鈴木清も船上での人々 への直接伝道の手応えを喜び、自信を深めた。このニュースは創立直後の神戸公会員に喜びをもっ て聞かれた。タルカットもこの件を手紙で報告している。グリーンにとっては彦根で伝道者が求め られたこと、また一般の人が日本人伝道者の説教に耳を傾けたことは、新しい喜びであった。キリ スト教が日本に受け入れられる可能性があること、そして日本人キリスト者が説教すれば、一般の 日本人に聞き入れられる可能性があるということを実際に経験できた点が、彦根伝道の大きな成果 であった。 | |