明治初期神戸伝道と三田藩士

彦棍伝道
   《全文掲載》

2006年1月1日

 アメリカン・ボードは今まで見てきたように神戸、大阪をステーションとし、神戸からの伝道地 として、三田、明石、加古川で医療事業とともに伝道に当たっていった。しかし外国人の立ち入り が許されないため、その他の地域に宣教師が伝道に向かうことはなかった。しかし一八七二年京都 で開かれた第一回京都博覧会は、一時的にせよ京滋地区への外国人の立ち入りという新しい局面を 開いた。
 京都博覧会ほ同年夏まで開催が延長されたが、その一八七二年七月0・H・ギューリック夫妻は 近江に入り、大津を経て船で彦根に至った。ギューリックは大津の人口を三五、〇〇〇人から四 五、〇〇〇人、彦根は三〇、〇〇〇から四〇、〇〇〇人と報告している。彼らは七月四日船で彦根 に入り、許可をえて彦根城に登り、城閣から市内、港、琵琶湖の景観を楽しんだ。同夜旅館で一泊 し、多くの人々から暖かいもてなしを受けた。しかし、個人的接触はなかったようである。彼らは 翌五日船で長浜に行き、そこから船で大津に戻った。長浜の人口は一〇、〇〇〇人と報告ている。 ギューリックは自分たちはザビエル以来始めて近江路に八った西欧人であると述べている。

 翌一八七三年再び京都で内国博覧会が開かれたのを機に、グリーン夫妻、デビス夫妻、0・H・ ギューリック夫妻、ジョン・ギューリック夫妻(この当時は中国派遣宣教師)、ゴルドン夫妻が京都と 近江の回遊を試みた。まずグリーン夫妻が他の一行より先に彦根に入った。グリーンはまず同地が 神戸に較べ知的な人々が多いと述べ、理由として以前侍であった人たちが約一万人いることをあげ ている。グリーンはこのとき「バラの昔の生徒」の夫人の訪問を受けた。夫人は宣教師に会うのを 非常に喜び、宣教師が彦根に長期間滞在することを切望した。また彼女の義兄弟はもし宣教師が彦 根で学校を開設しようとするならば、無料で建物を提供し政府から外国人の滞在許可をとることも 保証すると語った。この婦人たちは後日ギューリックらの一行にも会ったようで、ギューリックは 彦根では英語学校があったが貧弱な内容なので、宣教師がやっている神戸や大阪の学校のようにする ために、宣教師が教師として来て欲しいと望んでいると伝えている。

 この「バラの昔の生徒」とは鈴木貫一のことであり、宣教師と面会したのはその妻と、弟鈴沐省 三のようである。鈴木貫一は天保一四(一八四三)年二月一二日(陽暦三月一二日)彦根に生まれ、 一八六六(慶応二)年アメリカに留学し、帰国して一八六八年五月粟津高明と共にバラから受洗し た人物である。彼が在米中にバラに宛てたと思われる書簡が杉井六郎教授によって明らかにされて いる。しかし留学の経過については不明である。また横浜の「日本基督公会」へ、同公会設立直後 の一八七二年四月二八日に転入したことは小沢三郎氏によって解明されている。再渡来し帰国後、 一八七〇年集議院設置により議員となる。一八七一年、彦根の自宅を校舎として、彦根藩立洋学校 を開校した。しかし間もなく政府高官のフランス視察にあたって随行を命じられたため、洋学校を 鈴木省三に委ねて出発した。「彦根市史稿」は鈴木省三は貫一の息子としているが、宣教師は貫一 夫人とsister-in-lawが会いに来たとしているから弟と考えられる。いずれにせょグリーンが彦根 を訪れたのはこの時期である。鈴木はその後もフランスで公使館二等書記官、臨時代理公使まで務 めたが公金横領の罪が発覚し、フランスを逃亡、ベルギーで自首し、日本で刑期をつとめた。横浜 海岸教会は彼を除籍して教会を追放したが、その後復籍していることが井上平三郎氏の資料調査に より明らかになった。その後の動静は不明であるが、晩年を京都の田中村で過ごし、一九一四(大 正三)年六月二九日死去しており、彦根や他地方のキリスト教会とは直接には結びつかなかったよ うである。

グリーンはこうした家族の存在が宣教師にとっていかに大切なものかと述べており、彼らによっ て大いにカづけられたようである。しかしこの地に宣教師を送ることについて、ギューリックは神 戸、大阪に人が必要なときであり、多くは望めないのではないかと見通しを語っている。
 彦根に手掛りをえたグリーンらは翌年も同地に伝道流行を試みる。一八七四年五月初め、グリー ンは神戸から鈴木清を伴って彦根入りをする。五月三日の日曜日は医師の家に招かれ、彼と友人三 人にキリスト教の話をした。通訳として鈴木清に助けてもらいながら、質問にも応えて二時間半に 及ぶ会合をもった。この医師は聖書を買い求め、分からない点は神戸公会に質問状を送るといい、 鈴木も誰かが必ず返事を送るよう確認すると答える。この招いた医師と聖書を買った医師が同 一人物とすれば、樋口三郎と推測される。中島宗達とも考えられるが、中島はすでにへボン訳聖書 をもっていたと伝えられているので、同席はしていただろうが聖書は買い求めなかったと推察され る。樋口は(一八七六年に彦根で医療知識と技術を普及させる医学会社を設け、宣教医W・テーラー を月一回招き、中島宗達と共に彦根教会設立(一八七九(明治一二)年)の中心となる人物である。 さて、グリーンはその夜鈴木貫一夫人から、翌日自宅に来て青年たちに話をするように求められた が、帰神の予定があったため断わらねばならなかった。

 帰途大津への船で、グリーンと鈴木清はデビスのトラクト『真の道を知るの近路』を配布する と、乗客からもっとくわしい話をするように求められた。そこで鈴木は乗客を二つのグループに分 けて話したが、全員熱心に話を聞き、ある人々は涙を流したとグリーンは報告している。またグリ ーンは霊魂の不滅に関する質問に答えている。下船の際は全員が二人にていねいな感謝の挨拶を送 った。また往路、復路ともに橋本(大津近辺)でも集会をもった。

 グリーンは彦根での成果に、自分は聖書翻訳のため横浜転任が決まっているが、むしろ彦根に赴 任して、英語教育と福音伝道に当たりたいぐらいであると述べている。また鈴木清も船上での人々 への直接伝道の手応えを喜び、自信を深めた。このニュースは創立直後の神戸公会員に喜びをもっ て聞かれた。タルカットもこの件を手紙で報告している。グリーンにとっては彦根で伝道者が求め られたこと、また一般の人が日本人伝道者の説教に耳を傾けたことは、新しい喜びであった。キリ スト教が日本に受け入れられる可能性があること、そして日本人キリスト者が説教すれば、一般の 日本人に聞き入れられる可能性があるということを実際に経験できた点が、彦根伝道の大きな成果 であった。