| 明治初期神戸伝道と三田藩士 |
切支丹禁制令のもとで(市川栄之助) |
2005年9月4日 |
|
1871年6月30日(明治4年5月13日)夜半過ぎ、O・H・ギューリック
宅の門が激しくたたかれた。床についていたギューリックが驚いて起きて出てみると、
それはD・C・グリーンであり、ギューリックの日本語教師、市川栄之助が逮捕された
という報せを持って駆け込んできたものであった。 逮捕された市川夫妻の釈放を求めて、グリーン、ギューリックの二人は神戸のアメリカ
領事館に駆けつけ、領事ポール・フランクに頼んで外交ルートで兵庫県に抗議、釈放を
求め、栄之助夫妻の消息を聞き出そうとしたが果たせず、在日アメリカ公使を介して
日本政府との交渉に当たってもらった。 市川の逮捕は、グリーンの活動に大きな影響を与えた。逮捕を聞いたグリーンの召使 大坪正之介は大変驚いて、神戸を離れて横浜へ帰っていった。また、兵庫県は当時グリーン 宅に出入りしている者に対して、遠くに住むよう指示したという。これは事実上、彼等が グリーン宅に通えなくするための処置であった。これによってグリーン宅での礼拝は できなくなるであろうとギューリックは予想していた。これに当たるのが沢山馬之進や 前田泰一であった。
岩倉遣外使節団が1871年アメリカ合衆国に入り、ワシントンで国務長官フィッシュと 条約改定交渉に入った。交渉中に日本におけるキリスト教信教の自由が問題になった時、 岩倉がキリスト教迫害の事実が無いと主張した。しかし直ちにデロングが市川栄之助の 逮捕を問題にしたが、岩倉はこの件を知らずに答えられなかった。そのためこれが政府が キリスト教禁制令を撤廃する一因となったとグリーンは主張している。(切支丹禁制令 撤廃の主原因は長崎のカトリック教徒の弾圧にあったことは事実であるが…。) | |