村上俊吉の「回顧」より!
三田藩の進歩


日本基督教団神戸教会から出された「近代日本と神戸教会」という 本に三田藩士で草創期の神戸教会に深くかかわった村上俊吉が書いた 回顧録「回顧」の興味深い1節が掲載されていたので紹介したい。

三田藩の進歩

三田藩は藩としては普通の小藩たるに過ぎなかったが藩主が九鬼隆義 子は家族中の俊才であって、且つ人才登用の明があった。その第一着 として白洲退蔵氏を用いて藩政に参与せしめたるが如きは当時にあって は西洋の文明を一藩に施行する魁となり、後来に於いては九鬼家をして 富裕ならしむる基礎となったのである。

白洲氏は三田藩の儒家に生まれ、も聖堂に業を修めた人であるが、頗る 先見の明があって、よく時勢を洞察し、諸藩に先立って藩政の改革に 着手し、頑固なる宿老を説き伏せて、自在にその意見を藩政に実行し たるなぞの手腕は、中々鋭敏であった。面して西洋の文明を輸入する ことを勉め、中村敬宇、福澤諭吉両大家の翻訳書を始めとし、日々新刊 される諸々の翻訳書を藩士に紹介して、之が閲読を勧め、只にその学説 を喜ぶのみならず、衣服器具に至まで、一に西洋風を模擬するに至ら しめたのである。

然れば明治二年の頃より、藩中一般男子の服装を洋風に改め、断髪を許し、 椅子よ、テーブルよ、パンを焼く法は如何に、牛肉を食わねば知恵が出ぬ なぞと、中々西洋風を気取っただけあって、様式操連なぞは最も進歩して おったようであった。その実例としては、藩の兵隊が京都へ出張中、 二条の広場で諸藩の様式操連のあったときにぞ各自スナイドル銃を携え、 一様に格好した戎服を着ておったのは三田藩のみで一際目だって見えた 程であったが、後れた藩は陣羽織采配という服装の隊長もあった。かくの 如く余りに進み過ぎた爲に、明治三年の十二月、藩政が太政官に帰した時 には、断髪では大政の法令に抵触すると言って、参事連中を始め慈姑の 取っ手ようの頭を再造したような次第であった。

ホームページ目 次新着情報