三田藩の進路をリードした

大参事白洲退蔵

高田 義久

  一、白洲家
  二、九鬼隆義執政
  三、廃藩置一県

白 洲 家

 白洲家は元禄四年(一六九一)七月二七日三田藩江戸留 守居役天岡与治右衛門の推挙で、白洲文蔵良房が藩主九鬼 副隆の儒者役として蔵米二〇人扶持で召抱えられた。以降 儀太夫良幹(梅塢)、順治郎良弼 (尚古堂)、貞四郎敬勝 (恩亭)、文五郎吉明(鳳陵)と代々儒者役を勤めた家柄で ある。

 白洲退蔵吉温、幼名を純太郎、号柳陰、また六甲山人、 或は参田居士と称した。文政一二年(一八二八)七月一五 日三田に生まれ。父は文五郎、母は播州小野藩一柳家の家 老黒石氏の女里子。幼くして父の教訓をうけ、弘化二年 (一八四五)一七歳のとき、勤学料年一〇両を与えられ大 坂の儒者篠崎小竹に入門、のち江戸の古賀謹堂について儒 学を修めた。藩に帰り厳父と共に藩校造士舘の教授となり 大小姓を勤めた。嘉永六年(一八五三)四月胆液謄病とな り、薩摩藩の侍医大木忠益の治療で幸い一命をとりとめた。

 安政元年(一八五四)正月「御軍法御改立」の建議が採 用されると西洋兵制の稽古が始まった。正月十三日小物見 役(斥候)を命ぜられ江戸藩邸より屡微服にて浦賀来航の アメリカ船の艦内に入ってその内情を探り、外人の擯訴す べきでないことを知って開国を唱導した先駆者である。こ の時の詩に「誓探夷情不顧生 此心聊欲擬忠貞 満胸壮気 雖消尽 腰帯宝刀鋒呑聾」と、爾来藩に在って儒教を教授 し、傍ら常に眼を内外の事情に注ぎ、意を経世の道に留め 一藩の推尊するところとなった。

安政三年一一月二三日父逝去により、安政四年(一八五七) 家督を相続する。翌五年二月澤野栄太郎の妹峯を妻に迎え、 純太郎を退蔵と改める。

隆義執政

 安政六年(一八五九)藩主九鬼精隆の死に際し、分家綾 部藩主九鬼隆都の三男隆義を迎えてその嗣とした。隆義は 進取的開明、賢才の聞えあり、退蔵の器量非凡でないこと を看取し、自ら下席に就いて先生と呼んで敢えて名を呼ば なかった。これは隆義の学問に対する謹厳な姿勢を窺うこ とが出来る。隆義は退蔵を奉行役に抜擢して藩政を挙げて 一任しようとさえしたが、退蔵は辞退して河村太郎左衛門 を以てその任に当たらせ自らはこの補佐となった。当時闔 藩の財政は困窮していた、六月新知高一三〇石を拝領する。 爾来「清・慎・勤」の三字を忘れず、美食に溺れず朝夕た だ茶と沢庵漬の香の物を食するのみ、この様な君臣一致財 政の回復を図った。

 隆義は退蔵の兵制改革案を基に、万延二年(一八六一) 三月上野ケ原での調練は旧来の三番士組の戦闘法によらず、 新洋式の鉄砲調練の戦闘法で行った。

 文久三年(一八六三)河村太郎左衛門没す。退蔵は隆義 に再び藩政に就くことを懇望され、六月二二日奉行役町支 配郡奉行南郷預かりとなり、更に七〇石を加増され藩政に当っ た。始めに藩庫を改めると新旧の負債二〇万両あり、当時 督促を受けているもの日歩金五両、四ケ月後には藩札紙幣 の引替えに要する金二三百両が必要であったが、藩庫には 僅か金三〇両のみでその他はただ古宝金若干あるだけ、債 主皆辟易して一人も出金を申出る者なし、退蔵は徒歩にて 大坂に赴き、債主を大坂蔵屋敷に招き、隆義は賢明な藩主 で、節倹を重んじ、今までの整理に自分を抜擢され、旧弊 を改められていることを熱弁、列座の人々皆話を聞き入る。 浮華を好まず節倹を重んじる誠意が債主に伝わり、その熱 意が債主帯屋宇兵衛の心を動かし三万両の金策に成功した。
是により大いに藩領の経界を改正し、領民に定引きを与え、 各村に社倉を設け毎年その半分を以て肥料を購い、肥料を 求める者は米と交換し、社倉米の新陳代謝を図った。また 新田開発には新に徒刑の法を設け、博徒及びその他軽犯罪 を犯すものは、片鬢或は片眉を剃り落し役丁として灌漑溜 池を作り、堤防を築く土木事業に服従させた。これにより 三田藩の池沼堤防永く破損流失の災いがなくなり、領民は 皆その恩沢に浴した。蔵役人・作事奉行などの小役人の地 位の向上・昇進を図り、財政充実につとめ、家老の内証掛 (勝手向)を廃止し財政改革に治績をあげた。

 退蔵は領民の就学について、慶応元年(一八六五)三月 三田町惣年寄に命じ町中の子供を教育する市学校を設け八 歳以上の男女に初等教育の普及を図った。また農民の子弟 のために領下に九校の郷学校を興し、村社の長床を廃して 校舎とし、宮田寺田を分けて学田とし庶民の経済的支持を 受けた点で寺小屋と立場を一にしている。

 慶応二年(一八六六)尊王攘夷の論が天下四方に起ると、 諸藩多く兵農を募り兵器を集める。退蔵好機到来とばかり に藩の武器庫を開き火縄銃・ゲーベル銃・弓矢・甲冑など 兵器を隣藩に売り、また藩士にも諭して武具を売らせた。 この時九鬼兵庫を始め旧派に属するものを神崎の警衛の任 に着かせ、退蔵は幕末の難局に際して一藩をリードして佐 幕より開国に藩論を統一した。

 慶応三年(一八六七)隆義は江戸にあって大政奉還に強 く反発し、幕府は隆義を佐幕大名の中堅として譜代諸侯の 鑑とした。これを聞くと退蔵は大いに憂い、一一月隆義を 迎えに江戸へ出発した。途中神戸において英人よりスナイ ドル銃三五〇挺を購い藩に送らせた。一挺三五両藩士これ を買う者先に売却した武器の代価を以て充てることが出来 た。一藩これにより士気大いに挙がる。退蔵これより江戸 に出て隆義に会い「憤慨激切深くその失策を論ず」一語一 藷言葉は静であるが、押せども突けども、押し返し迫る退 蔵の眉宇には鉄桶のごとき意志が表れていた。隆義漸次退 いて座隅に至る、退蔵愈々進んでこれに逼る、隆義は存分 に押問答した末に漸く闔藩を納得した。退蔵は老中に願い 出て、隆義闔藩の許可を取るや、一二月隆義を守護し、帰 一国の途についた。退蔵の説得が三田藩を救ったといっても 過言でない。慶応四年隆義は慶応義塾が芝に移転した時援 助を惜しまなかった。これが取りも直さず福澤論告をして 隆義・退蔵のその後の商売のよき忠告者となった。

 明治元年(一八六八)正月三田に帰った隆義は朝廷に恭 順を誓い、藩主の京都御所参内・朝見に成功するなどスマー トな切換えであった。退蔵は五月五〇石加増され大参事 (家老職)となる。五月太政官札が出たが国民は皆これを 信用せず価値遂に金一歩二朱に低下する。退蔵に思惑があ り藩米を皆売払う、代金は太政官札に限って受取った。こ れによって官札の信用が促進された。

幕府開成所教授川本幸民は職を辞し、世乱を避けて嗣子清 次郎と三田に帰ってきた。金心寺に英礪塾を開き「民間格 知問答」「究理図解」「世界国尽」を版行させて、藩士たち に配与し、これを領内小学校に頒ける。

 明治二年(一八六九)隆義は退蔵を扈従して上京。政府 は諸侯に自由な言論を求めた。隆義は洋学を起こすことの 急務を告げた。この時窃かに封建制を廃し、郡県制に戻す 策を抱いていたが、これには武士の佩刀を廃することが出 来なければ不可能だと廃刀論を草案しこれを隆義に謀る。 隆義これを賛成し公儀人九鬼求馬に命じて廃刀論を公儀所 に出させた。物論忽ち騒然となる。

 明治三年(一八七〇)先に起った領内百姓一揆で洋学校 建設は挫折する。

廃藩置県

 明治四年(一八七一)一藩上下帰田業に就く策を提案し、 三田を以て天下に率先しょうと、密かにこれを岩倉具視に 説く、岩倉大いにこれを喜んだがこれを秘させた。七月一 四日退蔵は三田藩を兵庫県に引き渡すや数万余円を官に納 めるなど、維新に際して隆義を助けさまざまな功績を遺し た退蔵は新政府より民部省出仕を要請されたが、福澤論吉 の説を守り官史の道を選ばなかった。

 明治六年(一八七三)「君臣一代水魚達 雄略当年思万 重今日中原雲雨望 江南贏得老加蚊龍」と隆義を擁して神 戸に出て志摩三商会を興しその運営にも参加し、開港され た神戸の将来を看取し小寺泰次郎と謀って地所を買占め、 間もなく地価高騰により大いに利益を上げるなど、武士に は珍しく経済面にも明るかった。

 女子教育の必要性を強く持っていた退蔵は神戸女学院の 前身神戸ホームの建設にも後援を惜しまず、明治七年(一 八七四)四月前田兵蔵宅に始まった神戸ホームを退蔵の北 長狭通の持家に移したが、生徒数が増え狭くなり、明治八 年(一八七五)三月九鬼隆義・白洲退蔵・前田泰一・鈴木 清らが中心となり学校敷地購入資金を集めた。退蔵は早く より支那訳聖書を読みキリスト教を知っていたので、E・ タルカット、J・E・ダツドレー両女史の義挙に応じて、 退蔵の廃宅を寄宿舎に、また旧宅を東舎に改築するなど、 居宅に接する所有地を割いたのであった。

 明治一五年(一八八二)八月退蔵は横浜正金銀行の官撰 取締役副頭取に就任。同一六年一月頭収になったが、銀行 局長の加藤氏と衝突して在任僅か二ケ月で副頭取小泉信吉 と共に辞任し、その後大蔵御用掛になり、同一七年岐阜大 書記官を拝命、在任中地方殖産のため功結を残した。

 明治二三年(一八九〇)退蔵思う処あり職を辞して東京 に帰る。旧藩主九鬼家の家宰の仕事に専念、所詮は武士の 商法旧藩士が没落し貧苦に喘ぐ子弟に学問を均等に与えら れるように九鬼家地下局の資令を貸与する奨学金制度の骨 子を作り上げた。

 明治二四年(一八九一) 二月隆義の病没に際し寝食を忘 れて看病をした。その時の過労が回復しないまま、九月病 に罹り同月一三日、隆義の後を追うようにして六三歳を以 て遠逝する。特旨を以て従五位下に叙せられた。

 想うに退蔵が若し最初より中央政界に立っていたならば 必ずや第一流の地位を占め得たであろうが、飽くまで九鬼 家のために尽瘁して、遂にその手腕を発揮するに至らなかっ たのは退蔵のために惜しむと共に、その清廉なる人格を窺 うことが出来る。九鬼子爵家今日あるは退蔵の力大なりと 謂うべし。


   参考   拙著「三田藩士族」
        退蔵遺文集 「六甲山房日録」
        現代有馬郡人物史