「蘭学者川本幸民とその足跡」報告記


八耳 俊文(青山学院女子短期大学)

 1998年10月11日から11月1日の3週間、兵庫県三田市の市制40周年記念行事として、 「蘭学者川本幸民とその足跡」展が同市立図書館特別展示室で開かれた。 化学史学会としては 後援団体となり、展示期間中の10月18日(日)、同図書館のコミュニティホールで催された 一般向け記念講演会で、化学史学会会員3名(芝哲夫、坂上正信、筆者)が川本幸民について話 をし、約10名の会員も参加された。

[目 次]

  1. 川本幸民展の略史

  2. 今回の展覧会の特徴と意義

  3. 記念講演会

  4. 注と文献

  5. 附 展示資料目録

  1. 川本幸民展の略史  

  2.  川本幸民は生涯、弘化2年、3年、安政5年と三度までも火事に遭い、修行中の写本や洋書を 失った。1) しかし、その後の活躍もあり、特に幕府の洋楽研究教育機関、 藩所調所から開成所の教授職を勤めるに至り、公民の蔵書は相当の数になったと思われる。  これらは明治4年に幸民が没するや、川本家の蔵書となったが息子、清一は明治32年、33年、 大正3年にわたり、東京帝国大学 付属図書館へ寄贈した。 その分量は、洋書、訳書、稿本など 約400冊、新聞綴9綴に及んだ。2)
     これら、幸民研究のみならず幕末の洋学史研究にとって第一級の資料は、 大正12年の関東大震災で東京帝国大学 付属図書館が炎上し、灰燼に帰した。 寄贈後、一部の資料(16点73冊)については明治39年の東京帝室博物館の特別展覧会に出品された ことはあったが、研究対象となる前に焼失したため、今や同展の目録3)と、日本学士院の川本幸民関係 書類に含まれる川本裕司調「川本幸民 川本誠一著及び所蔵セル図書並東大付属図書館へ寄贈シ焼失シタ ト思ワレル書(未整理)」より、寄贈本の内訳を想像するしかない。

     この不幸な出来事にもかかわらず、川本家では幸民の曾孫の川本裕司氏が、資料のもつ歴史的価値に 十分な理解を示され、まだ手元に保管されていた幸民・清一資料185点と追加分を、昭和18年に 明治前日本科学史編纂の資料として帝国学士院へ、昭和24年には家蔵の図書資料46点を北海道大学 へ寄贈された。 東京科学博物館では、帝国学士院に寄贈された分を中心に、「川本幸民遺品展覧会」 を昭和18年6月1日から6月10日に開催した。4)  会期は短く、会場も一室での展示であったが、 ここに科学史研究者に川本幸民が知られるようになった。

     だが、時代は戦局がいよいよ厳しくなり、学士院の建物が日本陸軍の使用に供せられたため、寄贈を 受けた資料は一旦院外で保管されることになった。 この変則的な状態は戦後も続き、日本学士院に資料 が戻されたのは昭和39年である。 日本学士院ではこれらの資料を川本幸民文庫として登録、一般に公 開した。  明治前日本科学史編纂事業に携わった一部の科学者のみ利用できた同資料が、広く閲覧でき るようになったのは、この時からである(一部の資料は更に遅れる)。

     この返却の切っ掛けとなったのは、幸民の出身地三田市の市役所で昭和39年2月20日から29日 に開かれた川本幸民遺品展である。 昭和38年暮れに、三田市教育委員会が日本学士院に問合わせを 行い、1月に戻された資料の一部が貸し出された。 昭和46年は幸民没後100年に当たり、それを 記念して6月5日、川本裕司・中谷一正著「川本幸民」が共立出版より出版された。 これは、利用可能 となった日本学士院資料の研究に基づくものであった。 本書の刊行に先立ち、兵庫県では川本家及び その関係者の協力を得て、川本幸民記念展が開かれ、6月1日から4日に県民会館(神戸)で、公民の遺品や 伝記資料の写真など79点が展示された。 これに合わせて日本医史学会関西支部夏期大会を兼ねた講演会 が三田市民会館で開催され、宗田一「川本先生と洋学」ほかの講演が行われている。5)

     翼7月17日には、川本幸民没後百年を記念し、蘭学資料研究会と日本医史学会共催の例会が日本学士院 で開かれた。 当日は、宗田一「川本幸民の理化学書」、片桐一男「日本学士院所蔵川本幸民関係資料」、 井上悌雄「川本幸民歿後百年に思うこと」、緒方富雄「川本幸民と蘭学者たち」の講演があり、川本幸民関係 の資料が展示された。6)

  3. 今回の展覧会の特徴と意義  
  4.  三田市の市制40周年を記念して開かれた今回の「蘭学者川本幸民とその足跡展」は、従って幸民展としては 三田市では3回目、全体では5回目にあたる。 筆者なりに今回の展覧会の意義をあげるなら、次のようになる。
     第1点は、幸民の著訳書のうち、企画の時点で所在が判明していたもの全てが展示の対象とされ、全国の所蔵機関 の協力を得て、それらがはじめて(一部は撮影物で代替して)一堂に会せられたことである。  筆者は先に本誌に「川本幸民著作解説」を発表したが、苦心したのは、関係資料の特定 をし、実際に赴き、対査することであった。 「国書総目録」「古典籍総合目録」に登録されている分については、 それをもとに調査に出掛けることが出来たが、未搭載資料については、各種の手段を通じて、所在先を探すことから はじめなければならなかった。 たとえ判明しても、時間や手続きなどの制約等から、閲覧に至らなかったものも あった。 調査できなかった資料は「未見」と記しておいたが、「未見」を付けたままの発表は残り多かった。  その幾つかをこの展覧会では見ることが出来、積年の思いを果たした気がした。 これまで、せいぜい「気海観瀾 広義」か「遠西奇器述」の著者としか知られていなかった幸民であるが、彼の多岐にわたる活躍が今回の展覧会 で具体的に示された意義は大きい。 

     第2点目としては複写本が作成されたことである。 展示物は展覧会終了とともに、元の所蔵者に返されたが、 三田市立図書館では主な資料について複写本を作成、それらは同図書館が所蔵することになった。   本稿末に展示目録を付けたが、☆印のつく資料がそれに当たる。 これで全国へと調査旅行 をしなくとも、日本学士院資料を除いて、おおよその幸民の著訳書は三田市立図書館で閲覧することが可能となった。  幸民研究者は先ず三田市立図書館に行き、もし図書と図書との間を埋める文書の調査が必要なら、日本学士院へ行け ばよいのである(三田市立図書館では日本学士院資料のマイクロ化を進めていると聞く。 幸民の研究には、 この上なく便利な環境が用意されたといえよう。

    三田市立図書館が幸民の基本資料の複製本を持つことになった結果、地元でも 幸民資料を直接、読めるようになり、 独自にテキストも解読がはじめられた。 展覧会では「養英軒雑記」という天保年間になる漢詩を主体とする詩文集が 展示されていたが、これを読み下した冊子も会場に置かれていた。  これは三田市立図書館に平成7年度文学講座 「漢詩に親しむ」の講師として来ておられた岡田弘氏による解読作業のの成果である。 幸民資料は手書き資料が大半 を占め、解読も容易でないが、こうした地道な作業が継続して行われるなら、幸民研究に貢献する所大である。 これ まで幸民研究は日本学士院を利用できる一部の研究者によって、それも一部の資料に限って行われてきた。 この状況を 鑑みるならば、今回、三田市立図書館が全国 に資料を求められ、複製本を作成された意義は何重にもある。

    展示資料のうち幸民の著訳書の個々の内容は、 展覧会パンフレットに説明があり、また拙稿「川本幸民著作解説」でも触れておいたので、それ以外、特に「川本幸民伝」 に紹介されていない資料を中心に簡単に解説しておきたい。 まず肖像であるが、今回の展覧会パンフレット表紙に 使われたものは、東京芸術大学蔵の高橋由一スケッチブックにある幸民の肖像画で、かって緒方富雄が「日本医史学雑誌」 に紹介したものである。7) 幸民研究者には日本学士院蔵の軸物の「裕軒先生真像」の方が馴染み深いが、 落款が無く作者不明であった。 現時点でも不明だが、今回の展示を機に、逆に軸物の「裕軒先生真像」が高橋由一研究者 により注目されることとなった。

    品物の部として出品された、川本家伝来の什器には轡(くつわ)十字の島津家の家紋入の「伝薩摩藩下賜湯飲揃」も含まれ、 薩摩藩と幸民の結びつきがうかがわれた。 文書には、幸民が亡くなる前の病中の体温の変化を記したものや、初七日や 一周忌、三回忌の記録も展示された。 「川本幸民伝」にも言及されているが8)、幸民の交友を伝える 貴重な資料である。 

    洋書の部に展示された書簡の写本は、横浜市立大学図書館三枝文庫の蔵本である。 伊藤圭介の孫、篤太郎の大正4年5月 の識語が入り、幸民による自写体との説明がつく。 昭和17年、三枝博音が東京の古書店から購入し、現在に残る資料で ある。 恐らく洋学者の手に渡っていて、東大の図書館に行かなかったものの一部であろう。

    昭和18年の東京博物館の展示には久保貞次郎が「蘭学理学書 川本幸民手写本 5冊」を出品しており9)、これら写本の 存在は、幸民の手沢本がまだどこかに残っているのではないかとの思いを強めてくれる。

    今回展示された品は大半がまだ十分なる研究の対象となっていない。 この展示を機会にこれから一つ一つ様々な視点から の調査研究が進むことを願いたい。

  5. 記念講演会  
 講演会は展覧会を記念して企画されたもので、本会会員が約100名を前に、川本幸民の人と業績について講演した。  講演は地元市民を対象としたものであり、また講演時間も一人40分程度とそれ程長いものではかったため、内容の紹介 は簡単にとどめておく。 

館長の挨拶の後立った芝哲夫氏は「川本幸民と江戸時代の蘭学」と題し、展覧会パンフレットに氏が執筆された「蘭学と 川本幸民」に従い、まずリーフデ号が豊後に漂着した1600年に始まる日蘭交流史を概観し、その後幸民の生涯と業績を、 三田市及び周辺における幸民の事績を交え、簡潔に紹介された。

次は八耳俊文が「川本幸民とその著作について」の演題のもとに、川本幸民の多岐に渡る著作の成立の経緯を説明した。  また、物理と化学を、幸民は究理概念から捉えていたとの考えを述べた10)。

最後に坂上正信氏は「化学原書とその源流の西欧事情」と題し、多くのOHPの図を示しながら、「化学新書」の原書の さらにその原本に当たるドイツ語版が表された背景にあった19世紀ドイツ学問や化学のことを説明された。 話はドイツ 語原本の調査のため訪れたドイツのターラント(Tharandt)にも及び、同地と三田市が交流を深められて はとの提案もされた。

これらの講演の後は質疑応答の時間が持たれたが、三田市民の幸民への関心の高さを反映するかのようにフロアから活発に 質問や意見が出された。 質問は、「砲術新編」にある大砲の種類、幸民の訳にスナイドル銃の説明の有無を問うものから、 幸民に知識から三田藩に伝えられていたのかといった問いまで、やや専門的で、郷土史に結び付けての質問が多く、我々 としては十分には答えられなかったのは残念であった。 このほか、幸民のエピソードとして語られるビール醸造の根拠や 浦賀での蟄居の原因等も問題とにり、後者については講演会に招かれ出席されていた川本裕司氏が、川本家では上司を切り つけたためとの話が伝わっていると答えられる一幕もあった。

筆者は帰郷後、三田市の鍵屋重兵衛記念館より、高田義久「三田藩士族」(自費出版、1996年)の恵贈を受けた。  三田藩士の事績を調べたもので、いかに三田において幸民の影響があったか、本書を通じて筆者は知った。 本稿で記した ように、川本裕司氏は戦中より度々貴重な家蔵書を学会へと寄贈されてきた。 だがそれらの資料はまだ十全に活用されて いないのが現状である。 同氏は中谷一正氏と共著の「川本幸民伝」で、幸民に「近世日本の化学の始祖」と冠せられた。  今回の展示をきっかけに、まず化学史学会の会員から幸民を本格的に研究する人が現れること、そして今回、筆者が不足 を痛感したように、郷土史にも目を配らせ、広い視野より幸民の生涯と業績を明らかにしてくれる人が現れることを切望して、 この報告を終えたい。

  最後に付録として、「蘭学者、川本幸民とその足跡展」展覧会パンフレットより、
  展示資料目録を再録しておく。 三田市立図書館からは転載の許可と共に正誤表を
  送って頂いた。 それに従って訂正したほか、表下注に説明したようにごく一部改
  めた。


注と文献  

  1. 川本裕司・中谷一正「(近世化学の始祖)川本幸民伝」(共立出版、1971年)、106〜107頁。

  2. 同上、216頁。 この数は同書に記す数を単純に合算したものである。

  3. 「嘉永以前西洋輸入品及参考品目録」(東京帝室博物館、1906年)

  4. 「自然科学と博物館」第15巻第8号(1944年)、66、78−82頁。 朝比奈貞一 「和蘭の涙とボロニアの徳利」(理学社、1949年)、63−73頁。

  5. 「日本医史学会雑誌」第17巻第3号(1971年)、264頁。

  6. 同誌、251−263頁。 「蘭学資料研究会研究報告」第248号(1971年)、第249号 (1971年)彙報。

  7. 緒方富雄「高橋由一筆 川本幸民像」、「日本医史学会雑誌」第17巻第3号(1971年)、 247−248頁。

  8. 前掲「川本幸民伝」、184頁。

  9. 注4にある「川本幸民遺品目録」中、寄贈遺品外出品物。

  10. この講演原稿はやや文章表現に改め次にまとめておいた。 拙稿「医学から化学へ:川本幸民 の翻訳と究理」、化学史学会編「産業技術歴史・継承調査報告書」<平成10年度報告書> (研究産業協会、1999年)、印刷中。

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